北海道・美唄市のいわいちかさんからお便り
本日、13時から14時半くらいまで、JR岩見沢駅すぐそばのイベントホール赤レンガで
本日、13時から14時半くらいまで、JR岩見沢駅すぐそばのイベントホール赤レンガで
吉岡宏高先生を偲ぶ会が開催されました。若干ですがご報告いたします。
おおよそ100名くらいの方が来ていたように思えます。
ホールに入るとまず、吉岡先生のお写真と陰膳がありました。
あの、自らを「中トトロ」と言っていた吉岡先生がこんなになってしまったと悲しくなりました。
開会の辞、式辞、黙祷、故人の紹介ののち、追悼のことばが、空知振興局長・白石俊哉氏、
夕張市長・厚谷司氏、札幌学院大学名誉教授でたくぎん総合研究所では吉岡先生の上司だった太田清澄氏、アルテピアッツア美唄の加藤知美氏によって述べられました。
白石氏からは、空知の活性化のため振興局による炭鉱遺産の総合調査があり、推進協議会が2000年にでき、この時、専門家として吉岡先生が入り、2001年に北海道遺産、2019年に日本遺産になったこと、吉岡先生の言葉「共に事に当たろう」「優先順位をつけて事業化しよう」が紹介されました。
厚谷氏は、吉岡先生を清廉潔白で、時にはドラムカッター、時には救護隊、時にはだるまストーブと表現していました。
太田氏は吉岡先生のたくぎん総合研究所時代の上司で、吉岡先生が分析に優れていたことや、室蘭、札幌の地域計画に携わっていたこと、LRT(次世代型路面電車システム)の提案を早い時期にしていたことが述べられました。
加藤さんからは、霧多布湿原の理事だったことが話されました。その後、献花があり、
大橋二朗NPO法人 炭鉱の記憶推進事業団副理事長と吉岡先生の奥様からの言葉がありました。
大橋副理事長からは、奥様に吉岡先生が築き上げた人々の関係を見せてあげたかったというお話しがありました。
あの炭鉱の記憶推進事業団のロゴは奥様がつくったのだそうです。
本日はじめて、炭鉱遺産活動以前の吉岡先生の仕事を知ることができました。
特に元の上司であった太田氏の言葉で、吉岡先生を評した「分析力に優れている」というのに驚きました。
その分析力があったからこそ、炭鉱遺産の評価と新たな視点による展開ができたのだと思います。
また、吉岡先生が中2と中3の時の文章が展示されており、読んでみました。(写真を添付します)。
14歳15歳の子どもとは思えない、市民参画・民主主義の原形、中核とも思えるような文章が書かれていました。「無関心、無気力、無責任という三無主義の壁を取り除こう」、
「学校行事への生徒の自主運営にこだわるのは後輩への無形財産を残すため」、「与えられた議題を審議、議決、形式上だけの反省では後輩たちに何も残せない」、「形式上の年中行事から真の学校行事へ」などと書かれているのには驚きました。早熟な少年だったように思えました。
私が吉岡先生の名前を知るようになったのは、2010年か2011年の奔別炭鉱のアート活動の時からで、実際に行って、写真をとり、事業団の写真コンテストに応募したことがあります。
本日の偲ぶ会で、炭鉱以前の吉岡先生の姿を知ることができると同時に、エネルギッシュな姿も推察することができました。
北海道民で祖父達が三菱美唄炭鉱の炭鉱マンであったにもかかわらず、炭鉱には暗いイメージしかもてず、嫌いであった私が、吉岡先生の炭鉱再評価活動のおかげで、新たな考え方を知り、炭鉱を見直し、國盛さん、藤原先生、吉岡先生の対談に行き、藤原研究室に入ることになりました。芸術工学博士号への道のきっかけを与えて下さったのは吉岡先生とも言えます。
吉岡先生にはいつでも会えると思っていたのですが、とうとう実際には会えずじまいでした。
そんな思いを持って、本日の偲ぶ会に出席して、みなさんのお話しを聞き、展示を見て
なんとも表現しがたい気持ちになりました。吉岡先生にはたくさんの感謝をしたいと思います。









































