
中津江ホールを愛する会のあゆみ(伴走者による目撃その1):2021年8月10日付け西日本新聞、中津江ホールの前で取材記者へ答える吉田希世士さん(79歳)。
日頃は柔和でもの静かな吉田さんだが、この写真ではなぜか笑っていない。24年前、北九州市から中津江村へ移住してきた。地域社会に馴染みながら暮らしを謳歌するばかりでなく、ささえあいの仕組みづくりとしてNPOつえ絆くらぶを仲間たちと樹立し、地域社会の見守りと手助けを必要とする方々をささえ合う「ちょいテゴ」(テゴは地元で”手伝い”の意)活動を続けてきた。
さらにこのたびのホール存続活動では、中津江ホールを愛する会代表として、日田市長ならびに日田市担当部署が示してきた理不尽・不条理な中津江ホール解体案へ、納得のいく解体理由と検討経緯の情報公開を求めると同時に、合理的な施設案であり血税を用いるのにふさわしい優れた計画案であることを保証していただきたい、と日田市長への要望ならびに日田市議会への請願を続けてきた。
少なくとも日田市行政は合理的な計画案を保証するうえからも複数案比較による検討過程を丁寧に情報公開すべきであった。しかし議会での度重なる質問に対して担当の教育委員会教育次長は、中津江ホールの所有者は市である、市担当部署内部で検討・協議してきた、複数案を検討する状況になかった云々、と答弁してきた。
吉田さんをはじめとする中津江ホールを愛する会や同年8月19日市議会への請願書提出時に付帯した賛同署名240筆の方々にとって、こうした市民無視の対応こそが納得いかないのだった。吉田さんが笑えない理由はそこにある。
もとより日田市には政策立案過程への市民参画や市民協働をうたってきたまちづくりの最高規範とうたわれた日田市自治基本条例がある、その精神に反するのではないか、と疑問を呈し、請願に対する議会の採択を願って訴え続けてきたのだった。がしかし9月議会における継続審査決定後、さらなる12月20日日田市議会12月定例会最終日の採決において、あろうことか不採択とされてしまった。吉田さんたちが求めてきたことは、中津江ホール解体ありきの計画を説明するだけではなく、複数案から練り上げてきたというのなら、その過程を情報公開してほしい、優れた計画であることを保証して欲しい、さらに中津江ホールを解体する理由として持ち出してきた「老朽化」や「利用者の減少」とは何か、合理的な説明をしてほしい、等々、いたって冷静かつ市民の当然の権利を求めたものであったが、議会はそれを採択不可としたのだった。では不採択とは、この採択不採択をめぐる討論の中で適切に議論された結果であっただろうか。
文化の営みや幸福創出を醸成する建築とはいったい何か、を希求しつつ、建築学ならびに公共文化施設の専門家として、半年間にわたり中津江ホールを愛する会に伴走してきた私にとって、専門的な助言や施設の老朽化や管理運営上の課題を把握する見方はちょいテゴのようなものでったから、いつでも、わかりやすく、全国各地の事例を引き合いに出しながら説明を重ねていった。
それに対して、中津江ホールを愛する会に対する日田市担当部署の対応はじつに不可解なものであったろう。けっして合理的な説明とは言い難い釈明や弁明ともとれる発言や回答(らしきもの)が繰り返されていったが、そこにどれほどの誠実さや真摯さが反映されていただろうか。なにより一昨年夏の豪雨災害で被災した高齢者福祉施設を移転再建する整備事業を最優先課題として進め、同時に懸案であった幼稚園・保育所施設の統合化と移転を具現化するという二重三重の困難な条件だからこそ、優れた計画を練り上げるにはさまざまな叡智が結集される必要がある。それは果たして市役所の担当部署の力量だけで生み出しえたのだろうか。
旧態依然としたハコモノ計画で終わらせず、選ばれる施設となるような事業企画や管理運営に向けビジョンを示していくには、相応の専門的助言や優れた人材の参画が必須である。しかし垣間聞くところ、アテ職による代表者会議というものが話し合いの場を囲む、そこを軸に検討・協議がなされていったという。しかしその場で発言した方々は、今後の地域づくりへも波及していく責任ある一言を呈することができていたのだろうか。惜しむらくは、そうした場にこそ吉田さんたち中津江ホールを愛する会のようなピアノ教室発表会やカラオケ大会や行事イベントを通したホール活用経験をふんだんに有し、今後の活用へも意欲的なメンバーの参画が求めらるべきであった。しかし当たり前とも言える話し合いの場すら市民全体に開かれていたわけではなかった。
一例だが、関心のある誰もが集い誰もが自由に発言できるワークショップを、テーマに共感しうるファシリテーターのもと開催すれば良いことであった。しかし日田市担当部署の検討・協議の過程は閉ざされた壁の向こうで進められたとみえ、なぜか市民参画や市民協議を避けていったとすら考えられる。今や全国各地で住民参画のまちづくりが誠実に展開される中、旧態依然とした統治方法の頑迷さは奇異にすら見えてしまう。
吉田さんが見せる表情がさらに訴えるものは、背にした中津江ホールを守りたい、だけではあるまい。居住や農耕にはいたって条件不利な中山間地域が余儀なくされる過疎化や人口減少、経済産業の衰退による地域社会の疲弊化がとどめ無く進んでいく。どうしたら瀬戸際で守りあい、再生されあっていけるのか。そのためには、あらためてお互いが手を携えあって、分かち合い、支え合い、慈しみ合うような地域の相互交流や善意の循環を生み出す必要がある。いわば地域社会全体へ向け、ちょいテゴを楽しみ合うような市民意識や機運の醸成が欠かせない。じつのところ、吉田さんが中津江ホールを愛する会を重ねながらいつしか気づいてきたのは、中津江ホールが残ることと自分達の地域社会そのものが残ることとはきわめて似た構図の中で生じている問題ではなかった、ということであったろう。
関心や評判を一途に移ろわせていく世間にあって、人気がなくなった、古くなった、条件不利な中山間地域だからと安易に打ち捨て去って良いわけはない。むしろ私たちがどこから来て、今どこにいて、これからどこへ行こうとするのか、それを歴史的文脈の中できちんと見極め、自分の足下にあるものを「宝物」として再評価しながら、未来への道程を求めていくことが肝要である。
それらを起こす一番の動機づけは「矜持」(みずからを誇り高く思うこと)の再生にほかならない。もとより中津江ホールは、中津江村がかつて平成3(1991)年台風19号の風倒木による激甚被災から立ち直る過程で構想されたレジリエンス(自己治癒とも言える状況でもとに蘇る)へのリーディングプロジェクトでったという。3年後の平成6(1994)年11月にオープンしたが、中津江村の社会教育プログラムや村民交流が一気呵成に進んだのは言うまでもない。それから27年、たかが27年である。こうした文脈の再評価こそが矜持の再評価に直結する。
吉田さんは、中津江ホールを残すことが、自分達の地域社会そのものを残すうえで、なくてはならない公共文化施設であることを誰よりもよく理解し、さらに未来へ向けてより魅力的な毎日の交流や共感や共鳴や共振を生み出す共有の場(「新しい広場」=コモンズ(公共の居場所))として今より積極的に活用したいと先見していたのである。














