30日に閉園する遊園地「かしいかえん」(福岡市東区)に、旧香椎球場の外壁の一部が残っている。福岡県内で初のプロ野球が開催され、米大リーグの強打者ジョー・ディマジオが日本の選手を指導するなど戦後野球史に名を刻んだ球場だ。かしいかえんの跡地活用はまだ決まらず、外壁が残るかは不明。当時を知る地元関係者は「できれば残してほしい」と、“野球遺跡”の行く末に気をもんでいる。
香椎球場は1939年、香椎チューリップ園(現かしいかえん)とともに西鉄の前身会社が開場した。両翼85・4メートル、中堅105・2メートルの1万9千人収容。46年の中部日本-ゴールドスター戦を皮切りにプロ野球の公式戦5試合が行われ、48年秋には福岡国体で軟式野球の会場、西鉄ライオンズ発足後は2軍の本拠地として使われた。54年にセ・リーグの招きで来日したディマジオが臨時コーチとして国鉄スワローズの選手らを指導し、閉場される70年代まで大学野球の公式戦も行われた。
球場跡は園北側で、現在はゴーカート場などに使われている。残っている外壁は一塁内野スタンドの一部とみられ、コンクリート製の高さ約1~3メートルで市道沿い約40メートルにわたって続く。
11月中旬、地元プロ野球の資料収集に取り組むNPO法人西鉄ライオンズ研究会(本部・福岡市)の会員が現状を確認した。壁表面はツタに覆われ、木や草も密生していたが、当時の写真と見比べたところ球場の面影が残っていた。入場ゲートらしき建物跡もあった。内山純男理事長(74)は「残してほしいが、現状保存は難しいかもしれない。せめて球場の記念プレートなどができれば記憶に残るだろう」と話す。
香椎公民館の藤野庫充(くらみつ)館長(72)は「若い頃、よく行った懐かしい場所だが、覚えている人も少なくなった。写真などを残して語り継ぎたい」と語った。
西鉄広報課は「球場の一部が残っていることは承知しているが、跡地活用は白紙。いろいろな方と協議して検討していく」としている。 (塩田芳久)
藤原惠洋20211230撮影写真。
西日本新聞 塩田芳久記者 2021年12月26日付
新聞寄稿でお世話になっている西日本新聞の塩田芳久さんは、西鉄ライオンズの跡付研究を展開されています。
新たな記事を拝読しました。
戦後福岡の都市形成過程にも関わる重要な知見が示されています。
かしいかえんの前身として成立した香椎球場は、バッターから投手を見た際の軸が西へ向く配置です。
遅い午前から午後へかけての光はバッターにとって逆光となりますが、 内野手や外野手にとっては、飛んできた球を追いかけやすくなるのです。
これは、とりわけアメリカの影響下に拡がっていった戦後日本社会における学校教育や社会教育としての野球の普及と振興を考えた場合、野手の活動をサポートするうえから重要な観点です。
戦後の平和台球場の図面が再発見された際もまた、図面をしっかりと読み込ませてもらった際に、バッター席の北東から投手マウンドへ南西へかけての中心軸が通っており、本場アメリカの軸線配置と真逆になっており異なることを指摘、守備環境が配慮されていたのではないかと関係者のみなさんへお伝えしたことがあります。
なにしろ本場アメリカでは、興行としての野球を盛んにするため、右翼内野席(ホーム)側の賓客たちにたっぷりと喜んでもらうよう中心軸は バッター席を南端に設け、ピッチャーマウンドへの中心軸を北側に伸ばせば、日中の大半が順光となって選手たちの一挙手一投足がよく見えます。
しかし遅れて興行化が台頭した日本は、まず最初に学生生徒や若者たちが活躍しやすくするよう配慮がなされたと考えておく必要があるのです。
ただし以上は私の考察ですが・・・・藤原惠洋





































