1996年よりドイツへ渡航し、その後、ベルリンに住み続けることとなった真のベルリーナー山下真智子さんが、KAMEベルリンで用いる小鹿田焼を求めて、雪中、小鹿田へ向かいました。
そして懐かしい坂本工窯の窯元工(たくみ)さん・創さん親子と逢うことができたのです。
昨年の日田朝倉大水害は、小鹿田焼の里から川下へ降った小野の里を激しく襲ったため、小鹿田へ向かう途中の道路も寸断され、小野集落や道路のみならず小鹿田の復旧状況も十分把握できないままでした。
そんな中、わずかな情報を手繰り寄せながら、日本帰省のひとときの時間で一番行きたい場所は?と考えた山下真智子さんは、ぜがひともベルリンの名高いカフェKAMEで用いる民芸の器を得るための交渉をしたいと小鹿田焼の里へ向かったのでした。
大分自動車道はなんたく日田まで進むことができました。その後の日田の街中も進めたため、これなら大丈夫だろう、と山中の小鹿田を目指したのですが、昨年の水害で大きな被災を受けた途中の風景の変わり果てた様子は言葉にしがたく、なんとか復旧工事の道路を少しづつ通り抜けていきました。そして、後1.5キロという場所までなんとか達したものの、その先にはまだ雪が残る山中が立ちはだかっていたのです。
しかし偶然出会ったJAFのジープや行きすぎる車に助けられながら、車を途中で捨て、最後は歩いてでもたどり着きたい、と進んでいたところ、小鹿田の窯元の若奥さんの自家用車に拾い上げていただき、たんとか小鹿田焼の里に辿り着きました。
そしてお懐かしいお二人への再会。

そして懐かしい坂本工窯の窯元工(たくみ)さん・創さん親子と逢うことができたのです。
昨年の日田朝倉大水害は、小鹿田焼の里から川下へ降った小野の里を激しく襲ったため、小鹿田へ向かう途中の道路も寸断され、小野集落や道路のみならず小鹿田の復旧状況も十分把握できないままでした。
そんな中、わずかな情報を手繰り寄せながら、日本帰省のひとときの時間で一番行きたい場所は?と考えた山下真智子さんは、ぜがひともベルリンの名高いカフェKAMEで用いる民芸の器を得るための交渉をしたいと小鹿田焼の里へ向かったのでした。
大分自動車道はなんたく日田まで進むことができました。その後の日田の街中も進めたため、これなら大丈夫だろう、と山中の小鹿田を目指したのですが、昨年の水害で大きな被災を受けた途中の風景の変わり果てた様子は言葉にしがたく、なんとか復旧工事の道路を少しづつ通り抜けていきました。そして、後1.5キロという場所までなんとか達したものの、その先にはまだ雪が残る山中が立ちはだかっていたのです。
しかし偶然出会ったJAFのジープや行きすぎる車に助けられながら、車を途中で捨て、最後は歩いてでもたどり着きたい、と進んでいたところ、小鹿田の窯元の若奥さんの自家用車に拾い上げていただき、たんとか小鹿田焼の里に辿り着きました。
そしてお懐かしいお二人への再会。
