
2016年8月28日(日)「石橋美術館物語1956久留米からはじまる」を見てきました。
石橋美術館としてはこれが最後展覧会で、石橋美術館としては本日で終了、2016年11月19日からは久留米市美術館として新たに出発します。
私は福岡市にいるのに近くの久留米市内の石橋美術館にある青木繁「海の幸」をまだ見てないので見に行きました。「特別展ウィーン美術史美術館所蔵 風景画の誕生」につぎ2回目の訪問です。


久留米の石橋美術館につきました。↓ 美術館だけではなく、図書館、ホール、楽水亭(カフェ&ギャラリー)、日本庭園、西洋庭園、坂本繁二郎アトリエなどあり、このエリア全体を石橋文化センターと呼ぶことができそうです。

石橋文化センターは、株式会社ブリヂストンの創業者である石橋正二郎氏により、1956年、会社創立25周年を記念して久留米市に寄贈されたものです。
<寄贈された施設>美術館、体育館、文化会館(木造)、50メートルプールと観覧スタンド、野外音楽堂、テニスコート、児童遊園地、ペリカン噴水、洋風庭園、ミロのヴィーナス像、「みどりのリズム」などで、敷地面積は約30,361㎡。当時は入園料一人10円。(石橋文化センターHPより)



この館の特徴は、青木繁、坂本繁二郎、古賀春江という久留米が生んだ著名な画家の作品を多く持っていることです。国宝1点、重要文化財6点があります。青木繁「海の幸」は学校教育の中で、美術や社会の教科書で見たことがあると思います。

日本の美術館は写真撮影できないところが多いと思います。絵画をお見せできなくて残念ですが、この展覧会では重要文化財が5作品あり、タイトルを記します。
・青木繁 海の幸 1904年 油彩キャンバス 70.2×182 石橋美術館蔵
・青木繁 わだつみいろこの宮 1907年 油彩キャンバス 石橋美術館蔵
・藤島武二 黒扇 1908-09年 油彩キャンバス ブリジストン美術館
・藤島武二 天平の面影 1902年 油彩キャンバス 石橋美術館
・中国 龍泉窯 青磁鉄斑文瓶 石橋美術館
他に以下の作家の作品がありました。石橋美術館のものやブリヂストン美術館蔵のものがありますので目録をのせます。
安井曾太郎「薔薇」他、ポールセザンヌ「サントヴィクワール山とシャトーノワール」、黒田清輝「鉄砲百合」など(石橋美術館蔵)、ブールデル、パブロピカソ「女の顔」「腕を組んですわるサルタンバンク」、ジョルジュルオー「ピエロ」、マリーローランサン「二人の少女」、モネ、アンリルソー、ジャクソンポロック、ピエールボナール、モーリスドニ、ラウルデフィ、藤田嗣治(石橋美術館蔵)、佐伯祐三(石橋美術館蔵)、ロダン、マネ、ルノワール「すわるジョルジェットシャンパルティエ嬢」、長谷川利行、小島善三郎、小出楢重、坂本繁二郎、古賀春江、高島野十郎など、聞いたこと見たことのある名前ばかりです。





やはり、青木繁「海の幸」が私には良かったです。この絵は、デッサンの跡がみえ、荒々しい筆致で、絵の具が隅々にまて十分に塗られているとは思えず、これで本当に完成品として出していいのかと思えたほどですが、房州・布良の漁師の重みを感じる身体とサメ、向かっている方向へのダイナミックさとバランスを併せ持っているのがいいと思いました。
青山昌文著『芸術の理論と歴史』によるとp217「芸術の特質は何でしょうか。ディドロによれば、自然の自由な模倣にあります。歴史が自然を厳密に模倣するのに対して、芸術は自然を自由に模倣するのです。この自由は自然のある対象を再構成してそのある部分を強め、別のある部分を弱めて、その対象の本質をより顕在化させる自由」、P218「いわば機械的にそのままにー模倣することでは全くないのです。(中略)対象から付帯的なものを洗い落とすことであり、そのようにして対象の本質を浮き彫りにすることなのです。」 「模倣とは再現のことであり、ミーメーシスをいみしています。」、「芸術創造とは、それは日常的な視界からは見えにくい、世界の基底的本質のミーメーシスなのであり、その顕在化なのです。芸術とは、ディドロにおいても芸術家の内なる主観の表出の如きものではありません。それは実在的世界の本質の顕在化なのであり、この意味での模倣=ミーメーシスなのです。」とあります。青木繁の海の幸は、「実在世界の対象の本質の顕在化」という言葉が合うように思えました。


















過去の新聞をみると、読売新聞2014年6月28日夕刊には、大きな見出しで<運営・収蔵財団任せ>とあり、石橋財団撤退の理由として「公益財団法人化にともなう全面的な事業見直しの結果、より多くの人に鑑賞機会を提供するため、収蔵品を東京で一元管理するようにしたい」ということがあげられ、橋本副市長が「財団の厚意に甘えすぎていた。」と述べたとある。又、美術館の年間の運営費は1億7000万で今後、久留米市が運営するにあたり、これを市が負担することになりること、市が保有する美術品はごくわずかであることも書かれている。そして同記事には、市民から「久留米市はこれまで財団に甘えていた面があるのではないか。これを機に、市や市民も与えられて当たり前という意識を変える必要があるのではないか」という意見があった。
本日の最終日にはお客さんが沢山いた。特にピカソや青木繁の海の幸、わだつみいろこの宮の前に人が多くいた。色んなもの・ことが無くなる時になってこのようにお客さんが沢山来るということはよくニュース報道でもみる。無くなる直前になって初めて人はその貴重な存在に気付くのだろうと思う。
人口が減り、自治体の格差が広がり、税収が減り、公共施設のマネジメントが課題になっていく将来において、全てが今まで通り、過去の踏襲でうまくまわっていくとは思えない。市民・区民・町民・村民・島民など人々は何かを捨てたり縮小したり逆にここにはお金をかけるといったいわゆる「選択と集中」が求められるのかと思う。何を選び何を捨てる(縮小する)覚悟があるのか、市民社会が決めていくことと思う。(それとも何も捨てずにうまくいく魔法の方法があるのか、研究したいと思います。)
石橋正二郎の言葉が指針になるはずです。「人間は生まれて一生を只生きるだけで終わるのではなく、楽しく幸福に一生を過ごし、生きがいあることが何より大切で、これは衣食住凡ての生活環境の向上が必要で、それは文化の発展によってもたらされるものであります。」
岩 井














