2015年1月19日(火)18:30~21:00 九州大学芸術工学部 5号館531教室にて
九州産業技術史研究会1月定例会が開催されました。2016年初回となるこの日は
約40年竹中工務店九州支店に勤務され、九州大学公開講座受講生でもある
鈴木秀文氏を講師としてお招きし『商都福岡、博多の発展と竹中工務店』と題した
講義をいただきました。
鈴木秀文氏は福岡県福岡市生まれ。家系は代々大工であったことから大学卒業後は
竹中工務店へ就職されます。しばらくは大阪で仕事をされていましたが
1999年の福岡県川端地区市街地再開発をきっかけに九州支店に配属となり
福岡に戻ることになります。それから退職までの間、福岡市の建築の数々を
手がけられてこられました。この日は、竹中工務店と商都福岡の歴史を辿る中で
双方がどのように関わり合い近年の都市形成がなされてきたのか、そこで得た
知見なども語っていただきました。
竹中工務店は1610年に創業、尾張・織田家の普請奉行を務めていた竹中藤兵衛門
正高が名古屋に移り、寺社仏閣を主業として大隅流を創始。
1873年の名古屋鎮台営舎を工事しますが、それ以降は主に民間工事を請負ってゆく
ことになります。竹中工務店設計部は1910年に始まり、日本のモダニズム建築の
黎明と発展を共にし、また牽引するような役割も担ってきました。
全国各地の銀行、百貨店、ドーム、新聞社といった大型の象徴的な建築も数多く
手がけ、土木無し、建築専門、設計施工重視のスタイルが貫かれており
2009年には合名会社「竹中工務店」へと改称。設計施工を総合的に担うことが
できる会社として今日に至ります。
竹中工務店の本社は大阪にありますが、福岡では三井物産下関支店竣工(1910)
松屋百貨店(1933)、岩田屋(1936)、朝日新聞九州支局(1937)
九州電力本社(1952)、福岡ドーム(1993)、アクロス福岡(1995)
阿倍野ハルカス(2014)といった福岡を代表する建築を手がけられています。
受講生の方からも、日々おなじみの場所が竹中工務店によって手がけられていた
という驚きと、過去の懐かしい建築から様々なエピソードが出てきていました。
博多は江戸時代後期、焦土と化していたが太閤街割りの博多として再生し、
黒田藩の介在によって、武士と商人の街に分かれた街並が現在も残っています。
竹中工務店は、1754年に福岡で「岩田屋呉服店」から後に百貨店となる岩田屋の
物件を数々手がけてゆきます。さらに1945年福岡大空襲から復興するため
西日本新聞社が再開発の陣頭をとった新天町商店街や、九州電力の電気ビル本館と
電気ホールにも携わります。
鈴木氏本人は、岩田屋ギフトサロン那珂川店や、富士特殊紙業福岡支店、 HMビル
オンワード樫山福岡支店等々実に多くの物件に携わられ、その時のエピソードが
話されました。
質疑応答では、福岡は行政からマスタープランやグランドデザインが展開される
というよりは、それぞれ民間の建築が街並全体に貢献するような意識の集積が
現在の都市を形作っていった側面があり、そのことに対して議論が深められて
ゆきました。福岡の代表的な建築や再開発を手がけた竹中工務店にも
都市に緑をもたらし、様々な人々の往来と交流を促すような意識が強く持たれて
いたことなども伺い知ることができました。地元の素材や資材を使ったり
新しい意匠を取り入れ都市の顔を創り上げていく過程の中では、時にオーナーが
「これで良い」といっていても、建築家がやり替えてより美しくしていった事例
もある程とのこと。建築の全体像が、作り手一人一人に共有されているのか、
本当に建築が好きか、そして創る場に創造性があることが、良い建築を生む
重要な要素であると話されました。
講義終了後は鈴木さんを囲んで赤木酒店で打ち上げ。さらに聞きたかった質問が
飛び交い、福岡の特徴や今後の未来についても語られました。
今回の講義で、福岡の中心地区がどのようにして形作られていったのかを
丁寧に知ることが出来、また竹中工務店との関係の深さにも驚かされました。
戦後復興や高度経済成長の中、人々がより文化的でより良い暮らしを求め
獲得していった過程の中には、個人の利益のみならず地域や社会に対する貢献、
日本の未来を見据えた情熱や希望があったのだということを知りました。
大型の象徴的な建築から商店街や再開発といった人々の日常に深く介在する
空間も手がけられる中で培われた工務店の姿勢や鈴木氏のモットーなども
知ることができました。今後中心地区を歩く時、一つ一つの建築をもっと丁寧に
見てみたいと思います。
鈴木さん、どうもありがとうございました。
写真:岩井 國盛 文:國盛