
2016年1月20日(水)は、以前から楽しみにしていた幸若舞を見てきました!!!
日時:2016年1月20日(水)11:30~
場所:みやま市瀬高町大江 大江天満神社
幸若舞保存会
交通手段:JR鹿児島本線瀬高駅下車 徒歩30分弱
曲目と上演者
浜 出 小学4年と5年
日本記 小学6年
安宅(下) 青年
敦 盛 青年
髙 館 成人
夜討曽我(上)成人
藤原先生の公開講座で小池新二先生が取り上げられ、その中で、小池先生と元トヨタ自動車のデザイナー・諸星和夫さんが、東京からわざわざ、この幸若舞を見る目的で、福岡県のみやま市まで来たというお話を聞き、私も是非見てみたいと思うようになりました。幸若舞自体は700年の伝統があり、歌舞伎や日本の芸能の源流とのことです。
この日説明された話によれば、
・桃井直信が1396年に文章に節をつけて舞ったのが最初。
・豊臣秀吉はこの幸若舞が好きで、大茶会の時もこれが披露された。
・本日これを演じている小学生は夏休みから始めて、11月から鼓方についてならうとのこと。
・演じ手は大江在住の男子と決まっている。
・中高生は幸若舞をしない→変声期にあたり苦しくなるため。
・幸若舞の担い手が少なくなっている。
・ここ出身でこの地域に戻って来るのは50人に1人となっている。
・本日も29代家元が見ているが、常に正しく、変化のないようにしている。
・家元は子供には後を継がせず、一番できる人につがせている。親子相伝だと絶えると言われている。
・舞台の下には6つの壺が埋められており、足の踏み鳴らしに応じて響く音が出るようになっている。
・舞と言っても動きはたすき掛けと前後の動き。
・物語を語って聞かせるのが主。
・目をつぶってもきける。
・国家という概念が無かった時代、自力救済がこの当時の思想なので仇討は正統となる。逆に強盗は復讐 ができないので罪が深い。
・常に死と隣り合わせ。
・宗教観(死・無常観)
以下は幸若舞保存会が発行した『国指定重要無形民俗文化財 幸若舞(大頭流)』より抜粋。
「室町初期の頃武士道鼓吹の舞曲として始まり、足利時代より信長、秀吉をはじめ、徳川幕府の初期まで幾多の武将に愛好され、また諸国大名によって奨励されたため、大いに隆盛をきわめた。徳川の中期より、時代の流れ、趣味の変化、能曲、俗歌が盛んになるにしたがって次第に衰え、その発祥地の福井県越前町でも後を絶ったが、福岡県みやま市瀬高町大江に『大江のめえ』とよばれて昔日の姿をそのまま伝えている。毎年1月20日、五穀豊穣を祈って大江天満神社の幸若舞堂において奉納している。昭和51年5月、文化財保護法の趣旨により、国指定重要無形民俗文化財の指定をうけた。」
ここ大江の地に幸若舞が来たのは1789年。それ以来ずっと途切れることなく続いています。

駅にはこの方々がいて大江天満神社までの道を案内して下さいました。

若干わかりずらい道でした。30分弱です。


この奥で幸若舞は行われます。

住宅街の中です。





↓は神社です。




創始は源義家の末裔・桃井播磨守直常の三男・修理亮直信(幼名・幸若丸)で、幼時、比叡山で和漢の学を修め、歌曲を読むなどの学問に励んでいたが、その頃あった「双紙舞」という舞について、幸若丸は従来の節回しを勉強し、新しい調べを作った。それは吟詠晴朗で音声も律にあい、白拍子や曲舞に似た点もあり、幽玄な舞は見る人を驚かしたという。その後、父に従い越前に帰った幸若丸は、父の死後に京へ出た。そしてうわさを聞いた天皇の前で演じ、称賛を受けて越前に100町の領地を賜った。1346年頃から世に知られるようになり、門人も増え、幸若丸の子・弥次郎直茂の時に桃井姓を改め、幸若と称し、この舞を幸若舞と呼ぶようになった。
大頭流の起り:直茂の弟子に山本四郎左衛門という北面の武士がいて天性異相の大頭で音声も大きかったので、世人は大頭と呼んでいた。ここからの流れで、天明7年(1789年)正月、大江の住人・松尾平三郎増墺に伝えて以来今年まで二百数十年、大江に存続し、現在第30代家元・松尾正巳清平にいたっている。









家元です。幸若舞は家元の息子に継がせるということはしないそうです。お弟子さんの中で優秀な方がつぐとのことです。だから、ここまで続いたのではないかということでした。



以上で小学生の部が終わりです。浜出と日本記でした。
大頭流の舞曲は全部で42番あって、平家物語、源平盛衰記、義経記、曽我物語などから取材されている。現在舞われるものは、日本記、浜出、扇の的、夜討曽我、安宅、八島、和泉城、高館、敦盛の9曲です。
太夫は、謡いつつ、舞台を足踏み鳴らして、前後左右、斜めに動くのみ。舞といっても派手な動きありません。
「舞は古例に従って皇室より拝領の五七の桐と陰陽の菊の花の紋に染めた幕を打廻し、その前に小鼓方が1人床几に掛けて囃し、正面に立烏帽子に素袍上下で控え、各右手に扇を持ち、両手を張り、袖口を折り、体は上半身をやや前方に曲げ、眼は四・五間先方を見つめ、シテとワキは地謡を勤め、太夫は謡いつつ舞台を足踏み鳴らして前後左右に足をはこび、頭はほとんど動かさない武士的気風を横溢するものである。」(保存会資料より)

以下は青年の部です。







安宅(下)



屋外で長い時間鑑賞しているので、寒くなります。肉うどんが販売されていました。300円。


非常に美味しかったです。

楼門はまたきれいな迫力がありました。












足の運びに目が行きます。

↓最後の演目、夜討曽我が始まりました。
















こののち神社の中も見せていただきました。























初めて幸若舞を見ました。これが作られたのは700年前。全ての日本芸能の源流とのことでした。
派手な動きが無い分、何をしているのがが明快でした。目をつぶっても聞ける謡曲。これを守ること、変化の無いことが文化を守る際には必要なんだということがわかりました。
科学技術や社会変化の中で人の生活はどんどん変わります。その中で「変わらない」ことを守り続けるのは大変な努力なのではないかと思いました。
幸若舞を演じている時、演じ手のみなさんはどのようなことを考えながら舞っているのでしょうか。
オペラのように感情移入したほうがよいのか、それとも、冷徹に客観の立場を貫いた方がいいのか、一度聞いてみたいものです。
岩 井








