今年が最後の講義年となった芸術工学部『デザイン史入門』では、20世紀デザインを考える上で重要な人物を見てゆくことで、現代におけるデザインの可能性や意義を考察します。
オムニバス形式の出演者のトップバッターはふ印ボスこと藤原惠洋先生。
先生の20世紀デザインを考える上でのお気に入りは、なんと言ってもバウハウスです。
そこで、キーパーソンもドイツのデザイン学校「BAUHAUS」に学んだ希有な日本人の一人、山脇道子氏の軌跡を辿りながら、日本文化とドイツのバウハウスデザインの接点を見てゆきます。
バウハウスの経緯
現代社会に向けて次々と生み出されるプロダクトデザインの製品や商品には、20世紀ドイツデザインの影響を強く受けたものが数多くあります。
その中枢はデザイン学校「BAUHAUS」です。バウハウスで学んだデザイナーやアーティストたちは、その後強い影響を地球上に与えていったと言っても過言ではありません。
1919年にワイマールで創立。その後、6年間(1919年〜1925年)のワーマール時代が終わり、デッザウへ移転。そこでは教師達が生徒と共に校舎をデザインし、そこから世界に向けてバウハウスデザインが次々と羽ばたいて行きます。
しかし、工芸学校と芸術学校を合体させるかたちで生まれたワイマール・バウハウスでは、工芸と絵画表現が対立する形で存在していました。
手工芸ではマイスター(職人)と称される人とアーティスト(芸術家)がそれぞれの工房での役割を担って教育にあたっていました。量産可能な応用芸術か、一点に賭ける純粋芸術か。お互いの相違点をうまく昇華させながら教育を進めるものの、アーティストとマイスターの融合は難しく、壮大な実験校には限りない問題が山積していたと初代校長ワルター・グロピウスは述懐しているのです。
1920年代後半(大正〜昭和の初め)日本の女性は和服を着ている頃のこと。
同時期、オランダを中心に活動するデ・スティールではピエト・モンドリアンやテオ・ファン・ドゥースブルクなどがバウハウスと並走する形で芸術運動を展開していったのです。
1925〜1932年、ワイマールから移設されたデッサウのバウハウスではプロダクト製品量産化のための規範原型(プロトタイプ)を創出するという新しい試みがなされていく。さらには特権階級のためのデザインではなく、あまねく多くの市民が手にするデザインを目指して、新たな二代目校長・建築家のハンネス・マイヤーのもと社会からの要請に応える成果を次々と放っていきます。
その後、台頭するナチス政権によりデッサウも放逐されることとなり、1932〜1933ベルリンに再度移設します。しかし最後の校長となった建築家ミース・ファン・デル・ローエの努力もむなしく、ここでもナチスによって閉校を余儀なくされて行くのです。
バウハウスで最も長期に渡って教鞭をとったのは、20世紀初頭のミュンヘンで抽象画を生み出していったワシリー・カンディンスキーです。1866年モスクワ生まれ。30歳まで法律家として従事していたものの、どうしても画家への夢を諦めきれずに、絵を学んでいきました。パリ・ミュンヘン・ウィーンといった芸術の都には若い芸術家が集い、芸術運動や芸術の力を用いた社会改革への議論が日々なされていきました。ミュンヘンでもカンディンスキーたちは「青騎士」という抽象絵画グループに属し活動していきます。
その頃、何度もウィーン芸術大学を受験しながら合格できなかった芸術家の卵時代のアドルフ・ヒトラーが、後々ナチス政党の党首として政権を奪取、そこからカンディンスキーらの芸術を「退廃芸術」としてを弾圧していったことも複雑な運命のなせる技かもしれません。
バウハウスに集った教師陣の中でも、ヨハネス・イッテン(1888−1967)は数少ない教師資格の保有者であったが、美術に傾倒し、バウハウスの初代校長となった建築家ワルター・グロピウス(1883-1969)との出会いによってバウハウスのマイスターとなり、教鞭を取るようになっていきます。
遅れて入学したヨゼフ・アルバース(1888—1976)はバウハウスで学び、その後、教師となった希有な人材です。バウハウス閉鎖後は、渡米し、ブラックマウンテンカレッジ、次いでエール大学等で
教壇に立ち、色とかたちの追求を続けていきます。
グロピウスとの対立からバウハウスを去ることになったヨハネス・イッテンの代わりに、予備教育課程の指導を行っていきました。
イッテンは高い精神性の発露を重視し、心身を旧弊から開放するためにメディテーションや体操などを重視していたのですが、後を襲ったアルバースは、より論理的な表現を構築すな中で方法論的なデザイン教育を創出していきます。このデザイン教育方法は、有効な基礎教育手法として世界中のデザイン教育に影響を与えていきます。
さて現在のデッサウに残されたバウハウスは、一部が大学の校舎として用いられ、ミュージアムも併設しています。
またバウハウスがプロトタイプとして生み出した数多くのデザイン実践は、ウィーンのトーネット社などを通じて大量に生産されていきました。
さらに戦後から東西ドイツの統一を経て、旧東ドイツに位置したバウハウス・デッサウ校は1996年に世界遺産となっていきました。現在は、バウハウス・デッサウ財団が保存活用を行っています。ミュージアムでは、基礎教育、工房、ヨーゼフ・アルバースによる素材研究、色彩の授業時の習作などを観ることができます。
バウハウスで学んだ日本人
バウハウスにて学んだ日本人は水谷武彦、大野玉枝・山脇巌(藤田巌)・山脇道子の4人です。そのうち3人は帰国し、後に日本のモダンデザインや芸術活動に大きな影響を与えていきました。
そうした経験を山脇道子氏は「バウハウスと茶の湯」に著します。
その中で、山脇道子氏は、カンディンスキーの「抽象的形態要素」の授業が一番興味深い授業であった
と語っています。
授業では構内にある自転車を2、3台教室に持ち込ませ、適当に組上げさせます。それらをオブジェとして静かに眺めながら、形の要素を抽出していくのです。
「三角形」「楕円」「円錐」など見つけだしながら、さらに臆された「シュパヌンク(力)」を学生らと解明していくのです。
議論した内容を手元の紙に表現しだすと美しい形状が見えてきます。色と形態の相互関係を見つけ出しながら、抽象化するという体験的なトレーニングを何度も重ねていったというのです。
しかしながら1932年ナチスの台頭によって、デッサウ市議会がデッサウ・バウハウス造形大学の
閉鎖を決定。山脇夫妻は帰国を余儀なくされたのです。
山脇道子氏は何を得たのか?
・日本の伝統文化の中で生まれた感性
山脇道子氏は、茶の湯などをたしなむ父の影響により日本の伝統的文化の素養を自然に身に付けていました。機会を得てバウハウスに入学すると、デザイン理念に対する独自の解釈を促しながら、その後の審美的生活の創造を説くデザイン理論の基礎を育んでいったのです。
・バウハウスで身に付けた感覚と理論と技術の裏付け
造形的基盤としての「ものを視る目」を織物工房において育みながら、基礎過程で得たことを実践に移していきます。ここで山脇氏が生み出す織物は非常に大きな評価を得たというのです。
・生活美学の実践
主婦としての家庭生活の経験から、豊かな生活設計に際して審美的生活を提唱していきました。
創造性の重要さに着目し、その後、女子教育の実践として山脇学園という女学校を導いていきました。
さてこうして見ていくと、バウハウスのなしたこととは、最新の素材や材料を上手に組み込みながらも最も少ない材料で、最も美しく、機能的で大量生産を可能とし、人々の暮らしを豊かにしていきたいとするデザイン概念が世界中に普及していったと考えられます。
たとえば現代のApple社の製品や、私たちが普段使っている椅子・机・様々なプロダクトが概念の影響を受けていると言えます。
一つのものがデザインされることで、誰もがフラットに、平等に、全ての人にとってふさわしく使うことができるという美学が誕生していったのです。
質疑応答!?バウハウスはドイツだからできたのか?
[藤原先生の回答]
ドイツ以外の国では、同じようなデザイン運動や革命は出来なかっただろう。
当時、ヨーロッパの中でもドイツは最も貧しい国のひとつであった。イギリスは産業革命後、デザインの付加によって巨万の冨を得た。この背景には、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフト運動による功績が大きい。
19世紀終わりから20世紀初頭にかけてドイツの政府高官であったヘルマン・ムテジウスはロンドンに学び、イギリス流のデザイン振興の哲学や仕組みを学んで帰ると、1907年にドイツ工作連盟を発足させていく。ドイツでのデザイン改革は同連盟を母体にして動きだしたと言えよう。ドイツ工作連盟以降の国家プロジェクトの一つとして、バウハウスを創設していったと見てよい。
こうしたなけなしの地域固有資源を活かすためのデザイン試行の動きは、当時のドイツだからこそ生まれていった成果だったと考えられるだろう。
山脇道子さんの軌跡や数々の映像と共に視るバウハウスの歴史は近々百年になろうとしており、そこから生み出された成果は時代の先駆けとして常に洗練されており、哲学的な造形・色彩計画によって生み出された成果となっていきました。
現在バウハウスを学ぶカリキュラムは全国の大学でも少なくなっているそうですが、一世紀前を振り返ることは非常に重要なことであると感じました。
D3 國盛