当初、台湾から日本に留学したいと希望した理由は、地域固有の文化遺産を再発見しながら適切にマネジメントしていくための哲学や手法を深く学ぶと同時に、台湾にとって最も適切なマネジメントのありかたを修得したいと考えてきました。その中では、最も関心を持っているジャンルは「近代建築」です。
藤原先生のご指導によれば、「近代建築」というのは、二つの考え方から成立しています。一つは、時間的な区切りを示す中、世界史的に、近代期(19世紀〜20世紀前半)に建てられた建築物を指します。もう一つは、近代期に成立する哲学や思想を反映しながら生まれて行った近代主義(モダニズム)を反映し体現した成果としての建築を指して行くことが分かります。
日本建築史では、戦前に建てられた建築物のうち、西洋の建築様式や技術を用いた建築物や、西洋風の意匠を取り入れた建築物を指す見方がひとつあり、もうひとつは「近代主義」を反映した機能主義的建築やインターナショナルな国際スタイルの建築等を示していきます。
その中で、かつて日本植民地であった台湾、韓国、旧満州の各地域は、いずれにも独特な近代建築と近代主義建築が数多く残されており、過去の歴史を物語っているだけでなく、現在も都市のシンボルとして、また文化財として取り扱われているものも少なくありません。
このような問題意識を持って、韓国や母国台湾への踏査を重ねています。
ソウル
先日(2014年9月13〜16日)、韓国を歩いてきました。その際に、名古屋大学の西澤泰彦先生が書いた『植民地建築紀行ー満州・朝鮮・台湾を歩く』という本をあらかじめ読む機会がありました。西澤先生は建築の用途を項目別(例えば:官公庁、銀行、大学、病院等)にわけることによって台湾・韓国・旧満州地域における近代建築の代表作をあげて比較しながら説明しています。同じ植民地経験を持つ台湾と韓国ではあるものの、日本人建築家が設計し建てていった独特の近代建築に対し、異なる視座と歴史解釈を持っていることがわかりました。両者の間に、どのような違いがあるのかを確かめようという意気込みでソウルの近代建築を見に行ってきたのでした。
ソウルでは、最も威厳のある存在感を誇っていた戦前期旧朝鮮総督府庁舎は撤去されたが、旧ソウル駅舎(旧京城駅)(※塚本靖の設計と言われている)や韓国銀行本店(旧朝鮮銀行、辰野金吾設計)などについては保存措置が講じられています。西大門刑務所は、現在、博物館となり、周囲は公園となっていました。旧大韓医院は医学博物館として使われています。


旧ソウル駅舎
旧ソウル駅前の広場に座り、昔の姿を想像してみました。かつて東洋で第2位を誇る大きさといわれた「東洋二大駅舎」の称呼は今もふさわしいと思えてきました。今のソウル市民、韓国国民の歴史的遺産としては不可欠の場所であると思えます。
西澤先生《植民地建築紀行ー満州・朝鮮・台湾を歩く》の中で、朝鮮総督府と台湾総督府の文章には特に目を引かれました。台湾総督府は今も現役で使われているに対し、朝鮮総督府は1995年に解体されており、両国の対照的な措置が現代日本との距離感や国際関係を表していると考えられます。
旧朝鮮総督府庁舎の部材の一部は、韓国チョナン市の郊外に建設された独立記念館の庭に野外展示をされている。ここはまるで古代の円形劇場を見ているような感じを受ける。もう一つのイメージが出てきたのは北京にある「圓明園」の中の散在された建物の部材でした。よく見ると、この展示公園は三つの段階面を組み合わせています。特筆したいのは、且つ旧朝鮮総督府庁舎の尖塔で、現在は工夫された展示手法で一番低い段階面で置かれており、植民地統治者の高い象徴物は巧みに低されているとも言えるでしょう。
旧朝鮮総督府庁舎は1916年に起工、1926年に竣工されたものです。そのため前面にあった光化門を強制的に移築し、景福宮勤政殿の前に当時の権威を象徴するかのように建てられた歴史的経緯を有しています。構造は鉄筋コンクリート造、外壁に花崗岩を貼り、外観はネオ・バロック様式を基調としていたものです。
解体後の旧朝鮮総督府庁舎の部材の一部は、ソウルからけっこう距離のあるチョナン市の郊外に建設された独立記念館の庭に野外展示されています。ここはまるで古代の円形劇場を見ているような印象を受けます。よく見ると、この展示公園は三つの小さな広場をつなげて部材を展示しています。特に、旧朝鮮総督府庁舎の尖塔は見るに値するもので、植民地時代の統治者の象徴として建てられた権威あふれる建物は、現在では一番低い位置に置かれあたかもその権威まで低くなったように見えたのです。





ところでこうした近代建築の尖塔の話題と言えば、台湾総督府の尖塔もあるエピソードを持っています。1909年公表された日本で最初の設計競技でした。明治期日本銀行の設計で知られる設計の達人であった長野宇平治のコンペ案のデザインは、現状のものよりも中央の塔が低いものでした。設計競技で選ばれた案を実施する際の設計にあたっては、台湾総督府営繕課の森山松之助が担当し、植民地支配を表象するためにより高くより目立つようにつくりかえられています。
こうした出来事を考えてみると、戦前期日本の植民地であった台湾、韓国、それぞれの総督府の尖塔は統治の「最高政庁」の象徴として建てられものということができます。植民地支配下で戦争を経て、戦後、一方は未だ建物として使われ、一方は建物が壊され、部材が公園に展示されるという道のりを辿ることになりました。どちらも引き続き植民地の物語を今に伝える証拠と言えるものです。![o0800060010271852743[1]_cr](https://livedoor.blogimg.jp/keiyo_labo/imgs/c/7/c73342de-s.jpg)
台北
2014年9月19日〜20日、藤原先生と私(柯)は、台北で日本近代建築小委員会の先生たちと合流し、台北市内にある幾つの近代建築を訪ねてきました。これらも戦前期日本の植民地時代に建てられたものですが、官公庁、病院、学校、公会堂、博物館など、現代の台湾の一般市民に関係のあるものとして遺されています。
台湾鉄道管理局
赤煉瓦を用いた西洋様式時代の折衷様式の一つ。赤レンガと木材でできている。20数年前、現在の台北駅が新築されて使われ始めると、この建物はその後は使われないままの状態になり、そのうち廃墟になっていきました。現在は「台北首都博物館群」の一つとして国立台湾博物館が管理しており、修復工事を行っています。
現場では台湾中原大学の黄先生にご案内していただきながら、工事中の木摺り漆喰塗壁を見たのですが、驚きました。現在、九州の北九州市門司で同じ修復工事を行っている大正建築の門司港駅舎の構造ときわめて似ています。建物の全体や細部の構造や漆喰を用いた壁仕上げの方法も一緒でした。そこから黄先生の指導下において展開している修復の仕方も日本で行われている文化財修理の技術をめざしながら努力されている様子でした。
さてその際の現場の印象をふりかえっておきます。左官さんは木摺りを下地として用意して、その表面に漆喰塗壁を仕上げていきます。やり方は誰かに師事したのではなく、自らの経験によってやってきたということでした。文化遺産として建物を存続させる場合、建築当時の建物の特徴を後世に伝える必要がありますが、その修理方法のやり方に関しては相当に問題があることがわかりました。黄俊銘先生は、台湾の近代建築の調査、研究、保存に関しては、日本とくらべて、理論面での考え方、修理現場での実践が十分に成長していないため、保存や文化財修理事業がいまだ低調であり、なかなか思うように進まない、と嘆かれていた。
台北賓館(旧名称:台湾総督官邸)
マンサード屋根をもつ華麗な邸宅風建築です。戦前期を代表する台湾総督官邸であり、戦後の洋風住宅建築遺構として貴重な文化遺産として守られています。いかにも台湾らしい外観は、亜熱帯の気候に馴染むようベランダをまわしております。
台湾大学医学院附属医院(旧名称:台北帝国大学附属医院)
赤レンガと白花崗岩を混用した折衷様式の「辰野式」建築のひとつになります。バルコニーは南方を意識してのこと。インテリアも奇麗なタイルで仕上げられており、病院建築としての清潔さ衛生的な空間が生み出されていました。
植民地時期の近代建築は「負の遺産」と見なされることが多いのですが、戦後、今日至るまで、たくさんの用途に変更し使われ、都市景観として市民の記憶の一部を構成するようになり、広い視野でみると、これらの近代建築は町の遺産として町の歴史の発展を語る上で欠くことのできないものになっています。近代建築の保存、管理、活用は行政の仕事のみならず、市民の保存への意識、自分たちの街の景観になくてはならないという愛着を持ってもらうことが必要だと思います。そして、こうした文化遺産を守るというテーマが公けの場で議論になることが、近代建築保存へ向けてその道をひらくと考えます。
台南
植民地時代のことをどう評価するのか、批判するのか、といった歴史認識に関しては、その人の置かれた立場によってずいぶんと評価も異なっていきます。
近年、台湾において急速に発展展開している文化創意産業は、植民地時期の建物(有形の遺産)と、懐古趣味が融合し、もう一つの「台湾」を展開していると言えます。
こういう現象は「植民地時代後」(ポストコロニアル)と言えるでしょう。これは植民地主義が終わったということではなく、植民地主義的な遺産がその後の社会に、より深く、より永続的に関わりあっていることを示すものです。
植民地時代は台湾社会の転換期であったと言えます。社会構造、法令制度、思想文化、市街地景観、生活習慣が大きく変貌していきました。「台湾史観」を持っている学者は、台湾は徐々に「俗民社会」(folk society)から「市民社会」(civil society)に移ったと評価しています。
このノスタルジー現象が蔓延したのか、台湾社会は過去の日本統治時代の出来事を再評価し、新たにきれいなものに仕上げ、再提示していようとしています。以下にその事好例を示していきたいと思います。
ハヤシ百貨店
台南の中心市街地に屹立するハヤシ百貨店ビルは5階建て(一部6階)のアールデコ様式として知られています。この百貨店は「昭和モダン」を作り出して市民にこの都市のモダンな雰囲気を提供してきました。その一方で、ポストコロニアルの「日本式」のインテリア、和風料理、茶室が随所に見られます。幸い、「地元」の特産品や文化創意的な商品の販売拠点となっているので、もう少し台湾の主体性があるのが良いのではないかと思います。この建物は社会的にみても影響を与えるものであろうから、運営面ではそれを考慮する必要が出てきます。
ハヤシ百貨店の再利用は台南市役所が経営権をある文化創意産業関係の会社に委託して、運営しているとのこと。この方式は民間会社の活力とアイディアを導入するもので、柔軟な経営を行っています。今後、このような方式がどのような展開を見せるか楽しみです。
このようにしてできた商品を購入するのは年配の人々であり、彼らは商品を通じ当時を偲んでいる。日本統治時代を経験していない若者たちには、このような当時の物語を連想させて、彼らの気持ちをひきつけるようにしている。」 例えば、「臺灣總督府臺南高等女學校」ブランドは当時台南の繁華街の末広町、ハヤシ百貨店と組み合わせてストーリー化され、商品になり、台南女子高校の学生にすこぶる好評とのことです。



私たちが歴史の発展を見ようとするとき、そこには必然性と偶然性とがあることがわかるだろう。日本統治時代において台湾、韓国は、日本とともに時代の変遷と社会生活を体験してきた。そして現地に日本語などはまだ生きています。これは日本という一つの地域の記憶だけでなく、当時の植民地下にあった地域との共同記憶・「遺産」と言ってもよいのではないでしょうか。
現在、東アジアの戦前期にもたらされた遺産をどのように考えて行くのか、各国にとっては大きな課題をなっています。負の遺産から「文化」財への劇的な転換は台湾、韓国で積極的に行なわれています。
こうした「文化財化」や遺された文化遺産を積極的に活用して行こという傾向を単純に喜ぶのではなく、歴史的事実を実証しながら歴史認識を精査していくことと、その結果としてそこからきた発展がなんであったかということを市民社会全体で振り返って行くということがたいせつです。今後も歴史的事実と発展を踏まえたうえでの「文化遺産」を大切に次の世代に伝えていく必要があると思います。
参考資料:
汪 坦 (監修, 原著), 藤森 照信 (監修):《全調査 東アジア近代の都市と建築》1996
金惠信:《韓国近代美術研究》株式会社ブリユッケ,2005


































