建築史家でまちづくりオルガナイザーこと、九州大学藤原惠洋(ふじはらけいよう)名誉教授の活動と、通称ふ印ラボ(ここで「ふ」の文字は意味深長なのでちょっと解説を。ひらがなの「ふ」は「不」の草体。カタカナの「フ」は「不」の初画を指しています。そのまま解釈すれば「つたない」かもしれませぬ。しかし一歩踏み込んで「不二」とも捉え「二つとないもの」を目指そう、と呼びかけています。ゆえに理想に向けて邁進する意識や志を表わすマークなのです。泰然・悠然・自然・真摯・真面目・愚直を生きる九州大学大学院芸術工学研究院芸術文化環境論藤原惠洋研究室というわけ、です!)の活動の様子をブログを介して多くの同人・お仲間・みなさまにお伝えしています。 コミュニケーションや対話のきっかけとなるようなコメントもお待ちしております!

長崎を代表する地元誌『Nagasaki365』掲載より転載いたします。

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Talkin
About Nagasaki ―ゲスト:中村 享一さん[01.建築物が生み出す町の結節点]
 

私たちNagasaki365は「ローカルについて思考・議論し、再定義し、再構築することが、その集合体である日本そして世界の豊かな未来を創る。」と考えています。私たちはローカルであるここ長崎で今、何を見て、何を考えるべきなのでしょうか?

ここに一つのヒントを見つけるために、Nagasaki365は長崎の各分野におけるトップランナーがどのように長崎を見ているのかをインタビューでお届けする “TalkinAbout Nagasaki”を始めることにしました。

 

2回目のゲストは一宇一級建築士事務所代表、建築家・芸術工学博士の中村享一さんです。

 

中村享一さんプロフィール

 

1951年日本近代建築発祥の地、長崎市飽の浦生まれ。一宇一級建築士事務所代表。建築家・芸術工学博士。シェアハウス一宇邨長。長崎都市遺産研究会事務局長。日本建築学会・Docomomo Japan・建築士会長崎支部・長崎近代化遺産研究会・産業考古学会・住宅遺産トラスト会員。
白石建設、都市企画設計コンサルタントを経て’82年福岡で中村建築設計室設立。’97年JIA(建築家協会)九州建築塾を創設し実行委員長を務める。自邸新築を機に環境問題に取組み、’00年建築再生デザイン会議副議長。’09年九州大学大学院環境・遺産デザインコース入学。’10年還暦を機に組織変更し、翌年長崎帰郷。’13年長崎都市遺産研究会を設立し、長崎市公会堂保存運動に勤しむ。’16年軍艦島研究で芸術工学博士号取得。現在、建築保存再生を通し、歴史や文化、技術の継承に取組んでいる。
Facebookhttps://www.facebook.com/kyoichi.nakamura.5
一宇一級建築士事務所:http://www.ichiu.info

 

■取材場所:Akunoura HUIS

 

■インタビュアー:久保圭樹

株式会社ネットビジネスエージェント 代表取締役 
Facebookhttps://www.facebook.com/keiju.kubo

 

【目次】

  01.建築物が生み出す町の結節点 »

  02.軍艦島を知ると長崎が見えてくる »

  03.軍艦島から考える都市づくり »

  04.建築の道を歩む »

  05.建築家の視点で見た長崎市が抱える問題 »

 

01. 建築物が生み出す町の結節点

福砂屋 松が枝店の事例

久保:中村さん、今日はよろしくお願いいたします。まず、中村さんの建築のお仕事についてお聞きしたいんですが、長く福砂屋さんをやられてますよね。多良見店や本店の外壁改修、長崎空港店やショッピングモールの中にある店舗なども。その中でも非常にユニークなのが松が枝店だと思います。中村さんはプロジェクトマネジャーとして出店地の選定などもアドバイスしたとお聞きしたことがありますが、ここは場所としては少し外れた所にありますね。

中村:はい。松が枝店が建てられた場所は人が多く集まっていた場所から少し離れたところですが、実は結節点なんですよ。

久保:結節点に作ることによって…。

中村:繋がるんですよ。東山手ゾーンと南山手ゾーンを繋ぐ新しい人の流れを生み出します。遠くからでも福砂屋の前で、人がたむろしているのが見えるようになると、吸い寄せられて、結節点となります。水辺の森公園や美術館、出島ワーフなどナガサキ・アーバン・ルネッサンス構想エリアも回遊動線に入れながら、人の流れを予測して、どういう佇まいの建物を造ると効果的かを思考しながらプロジェクトに取り込みました。

久保:南山手と東山手のところを、結ぼうとしたんですね。

中村:そうです。その場所は十坪程の敷地ですが、そういう可能性を持っていました。南山手の外れでもなく、東山手の外れでもない。全体の中心になっていくという感じがしました。


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福砂屋 松が枝店。結節点となり人の往来を生み出す。

 

久保:ビジネスとしても可能性があるし、この地域の町づくりを考えた場合にも、自分たちがやる意味があると。

中村:そうゆうことです。

久保:そのために、この場所で、こういうデザインの建物にした方がいいと提案して、一緒に考えてってことなんですね。

中村:老舗企業は、地域に対しての配慮とともに、周辺のことをしっかりと考えているんですね。今の福砂屋の本店だって、あの場所は、果たしてあんなに便が良い所だったかというと、そうでもなかったように思います。前の広場だって、最初から広いわけじゃなかったようです。昔は足袋屋さんが前にあって、そんなに広くなかったようですよ。でも、あの場所をある意味では育てて、そして中心になっていきました。松が枝店の周辺だって、同じように育てて、少しずつ変わっていくと考えました。

久保:いい建築って、建てるだけではないんですね。

中村:いい建築は碁石の玉みたいな要素があるかもしれないですね。

久保:それはまちの中に、建物という碁石を一手打つことで、環境や状況が変わるということですか。

中村:変わります、変わります。こんな所にこんな建築ができたということで、人の流れが変わることは、よくあります。だれがどういう思惑があって、そこに一手を打つかが大事ですね。
 
 

見識と合意が、都市の未来を創る。

 

中村:そう考えると、その一手を見識がある人が打つか、そうでない人が打つか、っていうのが重要になります。例えばですね、家に新しい椅子を買おうというときに、子ども達がこの椅子がカッコイイと言ったものを買えば良いのか、というとそういう訳ではないんですね。いい家のしつらえができるのかと言うと、おそらくそれはノー。だから、しっかりと教育を受けた見識がある人たちが、よく見て、考えて、選んだ上で、子どもたちに合意を取るというようでないといけないと思うのですが、都市づくりにおいても同様なことが言えると思います。しかし、今の長崎はそうなってないんですよね。

子ども達から上がってくるものも聞かず、でも教育を受けた見識のある人間もいないがままに、どこで決まっているんだろうっていうような不安定な状態が今の長崎って感じがしますね。

見ていて思うのは、都市整備や建築の進むべき方向の判断基準が、「これだったら補助金がもらえます」という国の制度ありきになっているところです。長崎の悪いところですね。

久保:なるほど。

中村:国は地方都市整備のために補助金を作りますが、この制度というのは、画一的ですよね。平地も、長崎のような坂の多いところも同じ制度の中で検討しないといけなくなっています。だから、長崎は他の地域と比べて地政学上の問題をしっかりと考えた上で、その制度を運用できるスキルを持たないと、都市としての機能が衰退するという気がしますね。

 
 

Nagasaki365は、長崎の文化・歴史、景色、イベント、人についての情報をオリジナルな視点で切り取りお届けしています。この活動によりこの地で生まれ育った人たちが長崎の魅力を再発見したり、長崎を訪れる方、興味を持っていただいた方へそのユニークで豊かな長崎を伝えることが目的です。

そしてその先に、長崎の過去・現在・未来をつなぎ、これからの長崎の在り方を多くの人たちと考える機会を創造するとともに、グローバル社会においてローカルの未来が輝くすべを模索していきます。

日本において長崎を含むローカルは高齢化、人口減少、産業衰退と、危機的な状況にありますが、そこに暮らしていると価値ある原石がたくさんあることに気付きます。それを写真、文章、動画などでコンテンツ化し、世界中に届ける取り組みを行っていきたいと思っています。

ぜひ共感していただける方はお力添えください。フォトグラファー、ライター、編集者、インタビュアー、フィルムメイカー、ウェブデザイナー、通訳・翻訳家など、幅広く仲間を募集しています。一緒にできることを考えていきましょう。お気軽にお問い合わせください。

【お問い合わせ】
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私たちネットビジネスエージェントは、インターネットでローカルの未来を切り開きます。

ローカルに埋もれている価値の原石を拾い上げ、磨き、インターネットを介したコミュニケーションを支援することで、ローカルから次の時代の豊かさをクライアントとともに社会に提示していきます。 

前回は、中村さんがプロジェクトマネジャーとして関わった福砂屋松が枝店の事例や都市の未来を創るためには見識と合意が大切だというお話をお聞かせいただきました。今回は、中村さんが長年行ってきた軍艦島研究についてのお話をお届けします。

中村:1991年に「都市の解体と再構築」をテーマとする都市提案コンペが、日本建築家協会と長崎県の共催で行われました。著名な海外の建築家も審査員として参加したレベルの高いコンペで、今のアミュプラザやフェリーターミナル、倉庫街などがある出島エリアを埋め立てて何を創るか、というコンペでした。

これに私は「INCUBATOR1991」と題した提案をして「銅賞」を取ることになるのですが、埋立てを前提としたコンペに対して、埋立てを否定した提案を行いました。埋立てしないで海上に浮かべるリグ(船)を利用した環境研究センターを提案しました。

というのも、その頃はバブルが弾ける直前の頃で、経済優先の都市づくりはおかしいんじゃないか、という感じになりつつありました。それで、長崎の都市の歴史を振り返ると、石炭産業で栄えた軍艦島があり、香焼には風力発電機もあり、同一線上に三菱重工長崎造船所があるから、未来を拓く環境技術研究を新しい産業に位置付ける自然エネルギーを象徴するような何かを創るコンセプトが良いと考えたんです。

そこで、この出島エリアに石油掘削リグを停泊させた上で、それを石油掘削用機材は廃棄し、自然エネルギーの研究センターにして、「環境研究を軸とした都市再構築を行う」という埋め立てない提案にしました。

石油掘削リグは面白くて、作業員のための居住区があったり、海水の淡水化装置があったりと、小さな人工島なんですよ。さらに出島エリアは淡水と塩水の境目で濃度差発電の実験ができるし、三菱は内燃機の技術は世界一で、リタイアした技術者が町に住んでいるから、自然エネルギー研究センターがつくれると思ったんです。その横にMICEを併設して、自然環境研究の基地にしよう。そして、これが具現化された後は、この石油掘削リグは出島を離れていくというようなシナリオを書いたわけです。

長崎の未来を創造するために、「未来の技術」というものと、「過去の歴史」っていうものが一つになって「今、何をやるか」っていう提案をしたわけです。軍艦島研究はそのあたりから始まっています。
 

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1991年「都市の解体と再構築」をテーマとする都市提案コンペにてINCUBATOR1991が銅賞を受賞

 

軍艦島を起点に長崎の近代都市形成が見えてくる

 

久保:なるほど。特に軍艦島に注目したのはどのような理由からですか?

中村:軍艦島については、1991年以前は、普通の建築の人の興味の範疇でした。ところが、私はそれがどうやって生まれて、どうやって捨てられたか、というのを知らないと未来は読めないと少し気が付いたわけです。それから、少しずつ歴史をさかのぼるというような事を始めました。軍艦島を調べていけばいくほど、その前に長崎で起こったことと深く繋がっていることに気が付き、結局幕末までさかのぼりました。

私が生まれ育った飽の浦あたりは、日本における近代工場の出発点だったり、日本で最初にセメントが入ってきた場所でした。レンガはここで瓦職人によって焼かれただとか、建物を作るために新たに長崎で生み出されたものがだんだん明らかになってきました。

その他にも例えば、ここから対岸の南山手・東山手には、1850年代半ばあたりに西洋医学の標準基準が入ってきています。小島養生所なんかがそうですね。同じように、こちら側には西洋の内燃機関、つまり蒸気機関の標準基準が入ってきました。この2つが実は長崎の都市を作っていく重要な要素でした。この2つともが、軍艦島に繋がっていくわけです。

でも考えてみれば、こういうことについて私は学生時代には知りもしなかったことなんです。この近くに生まれて、当たり前だったので、特別の価値はないみたいに思っていました。

 

TalkinAbout Nagasaki ―ゲスト:中村 享一さん[03.軍艦島から考える都市づくり]

02.軍艦島を知ると長崎が見えてくる」に続く、軍艦島についての話。人口密度世界一の島がどのようにしてうまくコミュニティを機能させていたのかなど、中村さんの研究の一端が垣間見えるインタビューをお届けします。

  

03. 軍艦島から考える都市づくり

軍艦島の都市づくり~生産力を安定させるために

久保:例えば軍艦島が生まれて、繁栄し、衰退していきますよね。その上で、長崎という都市を考えた場合も当然繁栄があって衰退への曲線を描くわけですが、その衰退の中からいかに次の新しい芽を育てていくかという視点が、都市を持続させるにはあると思うのですが、軍艦島を見ていてそういう点で気づくことがありますか?

中村:ありますよ。端島(軍艦島)は、コミュニティが非常に良くできていますね。暮らしやすかったんですよ。端島を離れて自分たちできちんと生きていけるだろうか、って住民たちに思わせるぐらいの、良いコミュニティができあがっていましたね。

 

久保:人口密度が世界一だったと言われていて、それに過酷な労働ですよね。ともすれば負のイメージで見てしまいそうなものですが、そうではなかった、と。どうやってそのコミュニティは形成されていたのでしょうか?

中村:採炭業を維持するために酒と博打と女を掴ませて、縛り付けていた時代もありました。そこをどうやって解放させて、いい方向に向かったのかというのは、三菱の労使と教育というものが関係しているわけですね。それは、重要な都市づくりのサンプルのひとつとして見ることができます。

例えば、軍艦島では、激しい災害があって、労働環境も厳しいし、伝染病もあります。狭い島内は窮屈な生活で、荒れる人間たちがいます。そんな状況の中で安定した生産管理をするために、1910年代にお坊さんを連れてきているわけです。

その経緯について話すと、三菱の中でも端島坑を運営していた高島炭鉱は利益も上げていたので、会社ではすごい権限を持っていました。明治後半頃は、三菱の財源のドル箱は高島炭鉱を有する炭鉱業で、三菱の利益の半分くらいあるわけです。23年の利益で、丸の内の10万坪が買えた。それくらい儲かっているから、1日でも営業を停止すると経営的にはとても影響があります。

労使は常に重要な課題でしたが、その何十年か前にさかのぼると、高島炭鉱では「納屋制度」という間接雇用制度が廃止されていました。それは、親方が技術炭鉱夫を集めてきて、三菱で働かせ、親方はここから、みかじめ料を取っていたという制度ですね。

 

久保:現在でいう派遣制度ですね。

中村:その派遣制度によって炭鉱業は成り立っていましたが、ピンハネだとか、色んなおかしな制度もあって、安定した派遣にはなっていませんでした。労働者から納屋制度廃止の要求が三菱に出ます。それが明治30年頃です。日本に機械技術と近代経営が入ってきましたが、それまでの日本の風習、習慣、制度と馴染まないようになっていて、矛盾が表面化してきました。三菱は労働者の間接雇用制度をやめて、直接雇用をしないといけなくなりました。

現代でも企業がきちんと福利厚生まで含めてやっていくのは難しいわけですが、当時三菱はそれを実行しなくてはいけない状態に陥ったわけです。そのために、生活環境を整えます。酒と女と博打と給金だけでは、不満要因を解消できないというのが解っていました。

そんな中で、欧米を視察した高島炭坑長の日下部さんという方が、「欧米においては宗教施設、特に教会がコミュニティや自治、そして教育において大事な位置付けとなっているが、日本はそういったことを外において、技術や経営ばかりを取り入れたことに気づいた」というような記録があります。そして、社長の岩崎久弥さんに直訴し、お坊さんの派遣を依頼することになるわけです。

そのお坊さんがやられたのは、善導だと書いてありますが、寺や学校みたいなものをつくって宗教や教育を広めました。そうやって、安定した生活を送れるような環境をつくったわけです。つまり、労働者を治めて会社の生産力を安定させるためには、宗教など生産と直接関係ないことも、環境整備しながら町をつくらないといけないということまで、三菱は気付いて行っていたということですよね。

こういう過去の歴史を、軍艦島をサンプルにして見ていくと、資本主義経済が近代化のために不要だとして捨てた間接雇用制を現代では2030年くらい前からまた復活させているんですよね。100年も前の近代化のなかで、廃止する必要があったものをまた復活させています。おかしなことですよね。町や組織、制度を作るには、本来、歴史から学ばなきゃいけないことがありますね。
 

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2011年軍艦島への上陸許可を受け、島内の建物の実測と記録を行った。

 

久保:それを知るのに、軍艦島は非常に面白いサンプルだ、と…。

中村:はい、そうです。興味深いと思います。例えば軍艦島に1916年に建設された最初の鉄筋コンクリート造である30号棟がなぜ生まれたのかというところに注目しました。調べていくと、西洋の近代産業化を取り入れる過程で、労使の問題と経営の問題がしのぎあって、さらに厳しい端島の自然災害が加わったために、世界的にも先駆的な建築事例の30号棟が生まれたということがだんだん分かってきました。

「台風で壊れたものを作り変えるのに、もう木造はダメだから鉄筋コンクリート造にしなさい」というのは解り易いですよね。でも、「なぜ4階建てで復旧予算がついたのに7階建てが建ったのか?」ということが私には疑問です。これを深く読み解いていくと、「狭い土地に空地を大きく広げるためだ」ということが見えてきました。高層化させた居住空間を作り、生まれた空地には広場を作っていきます。そこには後に、商店、料理屋、床屋、映画館、寺などができていって、女性や子どもも暮らしやすくなっていきます。それが都市づくりでした。でも、経営とか経済の合理性、人の気持ちを外したところでの合理性を考えると広場なんかいりません。例えば、今の長崎市はそういう方向に向かっているように感じる時が多々あります。人口流出による人口の減少もそのような背景があるように思います。そのような視点での対策は歴史から学べることだと思います。
 

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軍艦島研究の成果を、軍艦島デジタルミュージアムの一角で展示している。

 

長崎市の都市づくりに対する疑問

久保:三菱が軍艦島という都市づくりを経済合理の外にも目を向けながら進めていった。長崎市をそれに照らし合わせてみると、今は逆の状態にあるということですか?特に長崎市のどういうところが気になりますか?

中村:例えば、学校や地域の統廃合はもっと、きちんと議論しなきゃいけないですよね。この問題は大きいです。

久保:例えば学校の場合、若い人たちは地域の小学校などが廃校になるとそこに住む意味がなくなりますよね。

中村:子供が育てられません。

久保:子供が育てられなくなりますよね。そうすると、子育て世代はより子供を育てやすい場所へ移動しようとします。結果として、そのコミュニティからは30代以下が消えることになり、地域の担い手がいなくなり、衰退に向かいますよね。

 

中村:まちは子育て世代がいなくなってくると、次第に衰退するでしょうね。

少し視点は変わりますが、地域の統廃合でいうと、このあたりは昔、淵村といって、明治後期に長崎市として統廃合しましたが、統廃合したくないという運動が起こっています。なぜなら、このあたりは税収で裕福だったからです。三菱があるから当然そうですよね。企業城下町で、お金は降りてくるというふうな場所でした。結局、国と長崎市の意向によって統廃合したわけですが、対岸地区として位置付けられ、車社会が進む中で道路等の基本整備が後回しにされたように思います。これは、地域の住宅整備が進まなかった大きな要因となりました。もちろん斜面地を多く抱える地域であることが、影響していると思います。学校の統廃合や市町村の統廃合は地域間の差や個性を考えるべきだと思いますが、昔からの「まちなか」を中心にものごとが動きすぎているように思います。地勢や地形にあった都市政策に関する手の打ち方が良くないですね。

久保:なるほど。

中村:新しく建てる長崎市役所についてもそうです。長崎市は新大工から浜町、そして大浦のエリアを「まちなか軸」といって、そちら側に市役所を移転し、建設する計画にしています。災害対策上の観点から高台から低地へ移転することの是非は別の論点ですが、市役所というのは市全体のサービスをするわけですし、位置を変更する時は長崎の人たちが一番寄り付きやすい長崎駅側に建てるのが正解ではないかと思います。駅から見た北部エリアに人口が増えてきていますし。それに、「まちなか軸」側には中島川があり、過去の災害を教訓にすれば、そちら側に建てるのはおかしい話です。そういうことが、まかり通っています。それに対しておかしいと言っても何ら回答すらせず、決まったことだというふうに推し進めていってしまうのですよね。

久保:それは政治や行政のシステムの問題なんでしょうか?

中村:それもあると思います。でも、それをコントロールしなきゃいけないのが首長さんであったり、市議会議員ですよね。問題を指摘し、行政がそこをきちんと検討するというふうに機能しないといけませんが、そうなっていませんよね。

 

04. 建築の道を歩む

建築に進んだきっかけ

久保:中村さん、建築家になろうと思ったきっかけは何だったんでしょうか?

中村:私は、親父が電気技師だったこともあり、最初に大学を受験した時は電気学科を受験しましたが、全て落ちました。長崎北高でバレーボールばかりやっていて、九州大会の出場権を得ていたので3年生の夏が過ぎても部活をやっていました。それで受験に失敗し、予備校に入ったのですが、ちょうど十八銀行本店が新築中で、授業をサボって美装のアルバイトに行ったことがありました。工事の完成間際に、現場のゴミ回収や掃除をするアルバイトです。その時、図面を小脇に抱えて歩いている設計担当者を見て、格好いいと思ったんですよね。それに、あの建物は良いデザインだったので惹かれました。それで、建築設計の仕事がいいかなぁと思って、受験科目を変えて建築学科に行きました。あんまり大志は持っていませんでしたね。(笑)

 

久保:ちょっとしたことなんですね。

中村:ちょっとしたことですね。でも、やっぱりそれは、いい建築に出会ったからです。今でも十八銀行の本店は大好きです。あの建物はいいですね。

久保:いいですよね。予備校生で「十八銀行の本店が格好いい」っていう感覚って…。結構そういうモノに対する「これ格好いい」とか「これ好きじゃない」っていうことはあったんですか?



中村:ありました、ありました。私は美しい物やデザインの良いものが大好きでした。高校三年の時に丁度スカGが売られていたんですよ、ハコスカがですね。

久保:スカG?ハコスカ?

中村:スカGはプリンス(現在は統合されて日産)製の車で、正式名称はスカイライン2000GT。ハコスカは、箱の形状をしたスカイラインの愛称で、70年代のカーデザインの代表選手のうちの一つでした。車好きだったので車のデザインには興味があって、他にも例えばイタリアのカーデザイナー、ジウジアーロがデザインした、いすゞの117クーペは、格好いい車でした。

久保:長崎ではそんなに走ってなかったんじゃないですか?



中村:ないです、ないです。でも、長崎市公会堂の裏のところに、117クーペが一台あったんですよね。私は、スポーツ少年でしたが、音楽も大好きでした。長崎ではマイルスというジャズ喫茶店がラジオのスポンサーをしていたので、ラジオから当時よくジャズが流れていまして、受験勉強のふりをしながらジャズを聞いていたという…。少し背伸びした趣味みたいなものに対しての憧れはありましたね。音楽にしても、それからデザインにしても。洋服でいえばVANJUNがありましたが、もう一つ上のランクのKentが良いよねっていうような、メジャーより、ちょっと外れたところの格好よさ、みたいなものに惹かれましたね。だから、建築、建物をデザインすることが好きになったのは、やっぱり学生の時の遊び方だったかもしれませんね。

久保:それで、建築学科に行くわけですよね。

中村:長崎総合科学大学にですね。当時は造船大学という名前でした。京都大学卒の優秀な若手20代から30代の先生達が集まっていて、そこの建築学科に入りました。
 

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大学時代。監督をしていた母校・丸尾中学校の女子バレー部メンバーと。

 

久保:大学卒業後はどうですか?


中村:大学を卒業して、白石建設という東京の会社に入社しました。その会社は、中堅どころの建設会社としての信用が日本一の会社でした。たまたま大学の先生のおかげで、そこに入社できました。土木の名門の白石基礎工事という会社の関連会社でしたが、実はその関連会社の創業者が長崎造船所の第3ドックを作っていたのを後で知りました。軍艦島の研究をしていくと、そういうことが段々と繋がってきて研究論文を仕上げなくてはという使命感にもなっていったわけです。

久保:白石建設には、何年くらい勤めたんですか?

中村:2328歳の頃で、5年くらいですね。

久保:どういう点がよかったですか?

中村:技術が高かったことです。それと、良いクライアントを持っていました。大使館や公使館の工事をやっていましたね。

久保:やっぱり視点が肥えるというか目が肥えるというか。

中村:日本でもトップクラスの設計事務所と付き合っていました。私は会社を辞める最後の仕事で、商業建築の設計をやらせてもらいました。表参道のメインストリートにある、当時16億ぐらいのビックプロジェクトで、貴重な経験でした。設計チーフとして担当できたのは、たまたまラッキー、運が良かったということでしたが。
 

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白石建設、新人時代。工事現場に向かう途中で同僚と。

 

久保:白石建設に勤めた後は…?

中村:福岡の設計事務所に3年くらい勤めました。

久保:その後、独立ですか?



中村:そうです。

福岡にて独立

久保:なぜ福岡の設計事務所を選ばれたんですか?

中村:結婚する時に九州に帰ってくるという義母との約束がありました。嫁さんは高校の同級生で、九州には帰る、そんなに遠くないうちに帰るという約束でした。それで福岡の設計事務所に入りました。もう今はその設計事務所はありませんが、そこで設計チーフとして100床くらいの総合病院を設計したり、それからショッピングセンターをやったりと、結構大きい規模の設計をしていましたね。

 

久保:8年くらい勤めて独立ということは…。そうすると31歳ですね。独立したときは、どんな感じでしたか。1件目のお客さんのこと覚えていらっしゃいますか?

中村:覚えていますよ、覚えています。高校の同級生が仕事を持ってきてくれた、ローソンジャパンです。ローソンジャパンの地区本部を久留米に作らせてもらいました。前の事務所をあと1ヶ月で辞めるという時に仕事が入ってきたので、事務所の許可を得て在籍しながら仕事をしました。

久保:なるほど。31歳からっていうのは結構大変ですよね。

中村:そうそう、31歳でもう子どもが2人いましたから。その時は大変でした。

 

久保:数千万円、数億円という案件を回すわけですから、若いとなかなか信頼を勝ち取るのが難しいですよね。

中村:当然、仕事がなくなったこともあります。困ったときには、営業に回ったこともあります。勝手に企画してビルの図面を書いて、事業収支の計算もきちんと作って、「こうやると儲かりますよ」という感じのことをやりましたが、まぁ全部だめでしたね。そういうのは。

一番苦労した時期

久保:そこから例えば、一番苦労した時期っていうのが31歳から数年間ですか?

中村:最初はですね、31歳からしばらくは良かったんです。ぽんぽんぽんと三年間くらいは仕事が続きました。それはきちんと仕事をやっていれば次の仕事が来るものだと思っていました。その頃は、若いですからね。例えば旧長崎県庁前のHill Side 5番館の仕事なんかは、そうです。これは実家の隣の親戚の案件でした。それから鹿児島の脳神経外科の専門病院がありました。これは前事務所の実績を評価されて頂いた仕事でした。それもこれも建築雑誌に掲載されて、そこそこ、高い評価と評判をいただきました。 そうやって、実績ができれば何とかなると思っていましたが、実績ができても仕事は来ないというのがその後分かりました。やっぱり動かすお金が大きいので、30代ちょっとの私が「表参道の16億円の仕事をやりましたよ。」、「ベッドが100床ある病院をやりましたよ。」と言っても、クライアントはその建物を見ていないし、何を言っているのかわかりません。設計したと言っても全部をやったのか一部なのか、工事に関係しただけかもしれない、という感じで。要するに信用がないのに、金額は大きいわけです。例えば3億、4億かかるものに対して設計料は5%いりますと言うと、3%でやるところがあるからと断られたりしました。そういう中で、やはり仕事を取っていくことは本当に難しかったですね。

久保:何年くらい苦労されたんですか?苦しい時期っていうのは…。覚えていますか?



中村:一番苦しかったのは、ある程度の実績ができてきた頃ですね。コンペで勝ったり、社会的に信用を得てきた頃に、別府の仕事を紹介されて、当時の別府市長にお会いしました。まちづくりをやりたいというご相談でしたが、たまたまそこに飛行機の格納庫を温水プールに改造した施設がありました。壊してそこに何か建てて欲しいと言われましたが、「こんなのは壊すべきじゃない。絶対良い建築資産になりますから。」と私は言いました。戦前の飛行機の格納庫を平和利用にということで、戦後、温水プールに改造したものでした。そこでは力道山のプロレスや、美空ひばりの歌謡ショーをやった歴史があって、そういう歴史を含めて考えるとこれを潰すのは勿体ないし、構造的には持つということを説明すると、市長がその提案を気に入ってくれました。「じゃあ、中村さんやってくれるか。」ということで、1993年頃でした。再生建築、いわゆるリノベーションの概念はまだ普及していない時代でしたが、大規模調査をやり、残せることを立証して計画を立てました。「プールを取り去って、つち土間のコンベンションセンターにしましょう。つち土間にすることによってゲートボール場ができます。農機具の展覧会・展示会ができます。もちろん音楽会だとかもできます。」という提案をしていましたが、基本設計まで完了したところで別府市長選がありました。負けないだろうと言われていた選挙に、その市長が落選したわけです。

それで、全部中止になりました。あっという間に全部の仕事がゼロ。もうそれをやるためだけにスタッフを増やしておりまして。確か6人いたと思うのですが、毎月300万円程が給料と経費でかかっていました。別府市のその案件収入がゼロになったので、それが一番厳しかったですね。もう事務所潰れるぞ、と。その年は1年だけで2000万円の赤字になりました。

当時、最先端の3DCADや周辺機器を含めて結構な設備投資をしていたので、そのローンは残るは、スタッフは減らさないといけないはで大変でした。事務所を構えていたのが福岡の大名という場所で、ポール・スミスの直営店やABCマートが入っているビルでしたが、私が設計したので大家さんにお願いして入居していたわけです。しかし、そこもすぐ退去するわけにはいかず、半年かかって出ました。それが一番きつかったですね。経営的な問題で言えば。

久保:そうですよね、人が減れば当然生み出す利益も減るわけだし。それで返して行かないといけない…。

中村:3年超しのプロジェクトが突然に消えたので、さぁ大変。ちょうど自宅を建築中でしたし、子供は中学校の高学年でした。ヨットをやっていた息子が、ちょうどヨーロッパ選手権の出場権を獲得していましたが、自費で出場しないといけなかったりと大変で。子供は送りましたけどね、ちゃんと。まぁ、それに比べれば、その後は大したことはありません。(笑)

 

 中村さんの目に、今の長崎はどのように映るのでしょうか。今の長崎が抱える問題などをお話しいただきました。
 

05. 建築家の視点で見た長崎市が抱える問題

建築の経済的価値を評価できない弱み
 

久保:建築家の視点で見た時、今の長崎市の都市づくりってどのように感じますか?

中村:長崎市は今、都市を豊かにするための投資をやっているわけですが、建築が生み出す経済的価値を正しく評価できていませんね。

 

新しく建物を作ったとしても、メンテナンスしないと、あっという間に建築はダメになります。そこにかかるお金のことだって不明瞭、「MICEを作れば上手くいきます。経営は外部に出しているから赤字を補填する必要はありません。」とか言っている状態ですからね。

建物を維持するための経費だとか、生み出す経済的効果が十分に理解されていないなかで、財源はあるだとか、国から補助金をもらえるだとか、補助金を使うことが地域を豊かにする、みたいなわけの分からない論法でハコモノを作っているので、専門家としての視点が入らないと非常に危ういと思います。

建築は資産にもなりますが、大きな負債にもなります。今これを作ればいいですよという夢物語みたいなものを話しているだけで、正しく評価せずにあやふやな部分を残して進んでいくと、この街は本当に経営破綻します。それが怖いですね。
 

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2016年、We Love Kokaidoイベントにて。ともに活動する仲間たちと。

 

久保:人口動態を見れば、確実に歳入は減りますからね。

中村:収入は下がってきます。明らかですよね。人口減少ということは収入が下がります。これははっきりしている。上げるとかいうけれど、上げるも何もMICEでどこからお金を生むのか。それは「波及効果」という説明しかしていませんからね。

「波及効果って、どこにあるんですか?駅前に作った施設だと駅まで来てパッと帰るのに、どこに波及効果があるんですか?」という状態で明示できません。

長崎のホテル業界がガタガタになってしまう可能性もありますよね。「いいブランドのホテルがないとMICEに人が来ない。だからMICEに隣接して高級ホテルを作る。」という話になっていますが、問題はこのホテルだって閑散期には安くなるんですよ。安売りすれば、今まちなかにあるホテルと競合関係になります。もしMICEによる集客がしっかりできずに、閑散期にこの高級ホテルが安売りするとなれば、その他のホテルは冷飯を食うようなことになってきます。競争になった場合は、泊まる人間は「安くてブランドのホテルがいいわ」となる可能性が大いにあるわけです。

私も世界の大きなコンベンション、海外で行われる建築家世界大会に10回以上参加していますが、長崎でその地の利が本当にあるのかという話ですよね。世界中を対象とした場合に、空港の問題がありますが、九州のなかでは福岡で止まってしまうような気がしますよね。MICEにはそういう不安要素があります。
 

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2005UIAイスタンブール大会にて。日本建築家協会の委員として、世界大会には毎回ゆかたを持参し、日本への招致活動をした。

 

国内対象で考えた場合も、建築学会だとか建築家協会の委員として仕事をして思ったのは、こういった組織が全国大会をやろうとした時に、開催会場を決めるのはその主催者などの運営を地域がサポートするのか、経費等の経済支援を行うのか、その両方をするのかというメリットの比較になります。長崎市のMICEの運営委託先にはそのノウハウがあるといっていますが、大丈夫でしょうか。とても不安です。

大学が学会の拠点として運営準備を行い、キャンパスや地域の大きなホールを利用しながら開催される学会もあります。でもそれにしても長崎は医学部と経済学部、工学部の他に全国大会が開催可能な学部が他にあるのでしょうか。それでMICEの運営の主軸になれるのか不安です。展示系コンベンションは農産物系は良さそうですが、機械系などは地元企業が少ないので、これは相当困難だと思われます。

久保:なかなか大変そうですよね。

 

中村:なかなか大変だと思います。だから本当にここで大盤振る舞いをやって、進んでいくとしたときに、果たして長崎はどれだけの負債を抱えることになるのかが怖いですね。

市役所だってそうです。現在計画されている規模の市役所が、なんで長崎に必要なのかと思いますね。建設に要する資金だけじゃなくて、維持するお金がかかります。これも問題があるので、不安ですね。

 

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阪神大震災報告。危険判定員として震災後の神戸に毎週末通った経験を報告した。

 

歴史的資源を丁寧に積み上げることが長崎の価値を高める

久保:今、長崎を建築家の視点で見ると、そういう点が気になる訳ですね。

中村:はい。もっと掘り起こさないといけない歴史的資源をしっかり見て、少しずつ積み上げていく方がよほど重要ではないかと思います。地道な作業で手間がかかると思いますが、それが重要です。訪れる人たちが、個性的で多様性のあるまちなかを歩くことができるための整備をする。そうすると、それがずっと残って歴史の厚みとなってきますよね。今、新しく作っている物は安普請で、すぐに償却していくのですよ。でも、歴史で残っているものを地道に積み上げていくと、長崎の価値は上がっていくのですよね。その差は本当に大きいと思います。

長崎の場合、歴史を守れば価値は上がるのですよ。手間がかかって短期的には利益を産まないと言いながらも、それは長い目で見ると厚みが増えて都市全体の底上げになります。そういうことをもっと大切にしないと、いけないのじゃないかと思います。
 

 

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