建築史家でまちづくりオルガナイザーこと、九州大学藤原惠洋(ふじはらけいよう)名誉教授の活動と、通称ふ印ラボ(ここで「ふ」の文字は意味深長なのでちょっと解説を。ひらがなの「ふ」は「不」の草体。カタカナの「フ」は「不」の初画を指しています。そのまま解釈すれば「つたない」かもしれませぬ。しかし一歩踏み込んで「不二」とも捉え「二つとないもの」を目指そう、と呼びかけています。ゆえに理想に向けて邁進する意識や志を表わすマークなのです。泰然・悠然・自然・真摯・真面目・愚直を生きる九州大学大学院芸術工学研究院芸術文化環境論藤原惠洋研究室というわけ、です!)の活動の様子をブログを介して多くの同人・お仲間・みなさまにお伝えしています。 コミュニケーションや対話のきっかけとなるようなコメントもお待ちしております!
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皆さん、こんにちは。

去年10月からドイツのカールスルーエ造形大学において交換留学中の九州大学大学院芸術工学府環境・遺産デザインコース・藤原研究室修士課程の張榮です。


今度はドイツの首都ベルリンにあるバウハウスに行って来ましたので紹介したいと思います。私の人生で本物のバウハウスまで来ることができるとは思ってなかったのですが、今回来ることができて本当に嬉しいです。交換留学を通して多くの経験をし、これをみなさんに共有できるのも本当に嬉しいことだと思います。


それではバウハウス(Bauhaus)について話を続けていきたいと思います。

実は我々が住んでいる現代の生活環境の中で我々の周りにある四角形の建物、ミニマルデザインのインテリアや家具、産業製品などはバウハウスからの影響を受けたものです。


ドイツは世界大戦で国の全体が荒れ果てた時がありました。その時ウォルター・グロピウス(Walter Gropius)はドイツ国内に経済の悪化、政治的・社会的無秩序を感じ、そのような国の混乱の中では芸術だけが社会を救う、新しい秩序を構築すると考え、バウハウス(Bauhaus)を設立することになります。単純に芸術やデザイン、純粋な造形教育のための学校ではなく科学的な原理を通した新しい改革や秩序をうち立てるためでもありました。ウォルター・グロピウス(Walter Gropius)はこの学校を通して建築や工芸、美術を合わせた一つのものを作りたかったのです。


 バウハウス(Bauhaus)の意味はBauen(建てる)haus()Bauhausの二つの言葉を合わせていることで家を建てるという意味になります。バウハウスは1919年ドイツの中部の都市であるワイマール(Weimar)で建築家ウォルター・グロピウス(Walter Gropius)により設立されました。設立されていた期間としては1919年から1933年までで、ドイツのワイマール(Weimar)から始めデッサウ(Dessau) 、ベルリン(Berlin)へと移動しながら続けられていくのですが、結局閉鎖されてしまいます。


 ワイマール(Weimar)でのバウハウス(Bauhaus)は1919年から1924年までで、工芸学校や純粋美術学校を合わせたようなもので、手工芸家を養成するための一般的な工芸学校の性格が強かったと言われています。当時の教育を担当した教授としては、ヨハネス・イテン(Johannes Itten)、リオネル・ファイニンガー(Lyonel Feininger)、パウル・クレー(Paul Klee)、オスカー・シュレンマー(Oskar Schlemmer)、ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)などがあげられます。

 ワイマール(Weimar)での教育課程としては、予備過程で半年間の基礎造形訓練を受け、土木・金属・セラミックス・壁画・ガラス・絵・布・印刷の各工房を経て進級するというもので、そこで造形理念を学ぶと同時に工作の先生から実用的な技術も学んでいきました。


その後、バウハウス(Bauhaus)は経済的な理由や政府からの圧迫などで閉鎖の危機に入りますが、ドイツ北部産業都市であるデッサウ(Dessau)市の支援で、1925年から1927年まではデッサウ(Dessau)に移動しその運営を続けます。ここでのバウハウスは、既にバスハウスの教育的眼目を形成し、総合的能力を持った人材を更に育成していくことにしていましたので、各工房での課程を終えた後はすべてのことを統括する建築過程として産業製品等に対するデザイン的な観点を取り入れ、旧来のデザインに対する解決方法を提示できるようなデザイナーを養成するための現代的なデザイン大学としての役割を担っていきました。バウハウスのワイマール(Weimar)時代に卒業した学生たちが教授になり、バウハウス(Bauhaus)は、ハンネス・マイヤーのイニシアティブのもと、デザイン導入、規格品の建築部品を用いたり、工業化のための活動をしていくようになります。この時期、バウハウスに対してデッサウ(Dessau)市長は、新しい教師獲得、新築や工房設備のための資金を確保し、支援を積極的に行ってくれたので、バウハウス学校の内部でも活気があリ、この時期をバウハウスの全盛期と言うことができます。この時期の教授としてはヘルベルト・バイヤー(Herbert Bayer)、マルセル・ブロイヤー(Marcel Breuer)、ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer)、ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe)などがいました。


しかし1928年、ウォルター・グロピウス(Walter Gropius)は結局、ナチスの弾圧によりアメリカへ移動し、ハーバード大学で建築科教授として残りの人生の時間を過ごします。ウォルター・グロピウス(Walter Gropius)がバウハウスを離れた後、スイスの建築家ハンネス・マイヤー(Hannes Meyer)がバウハウスを担当することになります。この当時のバウハウスは形式主義的な面が強く、1930年、ハーネスマイヤー(Hannes Meyer)はデッサウ市と関係が良くなかったのでバウハウスから離れるようになり、その後はミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe)がバウハウスを担当することになります。しかし、ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe)も1932年、ナチスの弾圧、政治的な混乱によりデッサウから離れ、同時にベルリンに再びバウハウスを設立しますが、1933年ナチスはベルリンのバウハウスも閉鎖してしまいます。


バウハウスは1933年に完全に閉鎖されましたが、ウォルター・グロピウス(Walter Gropius)は古い様式で画一化されていた工芸分野にバウハウスという教育機関を作る中で、多くの学生たちがデザインという新しい分野の勉強ができるようにしました。この学生たちの活躍によりできた製品が普及し、人々がその製品を使い、高く評価し結果、時を経ても、私たちの日常生活の中にバウハウスの影響がある製品が存在するようになりました。生活の中で使っているものをシンプルなデザインで便利になるように設計する方法は、バウハウスからの影響を受けたことでありますし、現代デザインの母胎はバウハウスという言葉があるほどバウハウスの影響力は大きいと言えます。ワイマールとデッサウのバウハウスとその関連遺産群は、1996年に世界遺産に登録され、2017年にベルナウ・バイ・ベルリンの関連遺産などを拡大登録し、「ワイマール、デッサウ及びベルナウのバウハウスと関連遺産群と改称されました。

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私が今度訪ねてきたバウハウスアーカイブ(Bauhaus Archiv)は1919年から1933年までドイツで研究されたバウハウスの記録などを保存するための建物で最初は1960年ドイツのダルムシュタット(Darmstadt)に設立されました。その後1971年にベルリンに移動することになり、建物は1979年に竣工し、バウハウスアーカイブ(Bauhaus Archiv)はベルリンを拠点に歴史、文書、写真、図書、作品、記録などを保存しています。現在、ベルリンにあるこの建物はウォルター・グロピウス(Walter Gropius)がデザインしたもので、ベルリンのランドマークでもあります。正確な名称としてはバウハウスアーカイブミュージアムオブデザイン(Bauhaus Archiv Museum of Design)です。ここでバウハウスを代表するオブジェ、歴史なども見学し勉強することができました。

                                          M2 張榮
 

   



 

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