皆さん、こんにちは。
去年10月からドイツのカールスルーエ造形大学において交換留学中の九州大学大学院芸術工学府環境・遺産デザインコース・藤原研究室修士課程の張榮です。
5月12日〜14日に私はオランダのミデルブルグ(Middelburg)に住んでいるSacha Oomsさんに会いに行きました。
まずはSacha Oomsさんについて紹介したいと思います。
Sacha OomsさんはベルギーのK.U.Leuven(Catholic University of Leuven)大学部から2014年9月から2015年8月までJTW(Japan in today's world)のプログラムを通して九州大学に交換留学生として1年間勉強をしました。その時Sacha Oomsさんは九州大学でISP(Independent Study Project)をしていましたが、ISPの担当先生が藤原先生でした。Sachaさんは満月に行われる藤原研究室での月宮殿祭にも来たり、毎週火曜日に行われるゼミにも参加し、私と知り合いになりました。
Sachaさんは2015年8月にベルギーに帰り大学を卒業した後、現在は彼女の母国であるオランダに住んでいます。
私が今ドイツで交換留学をしているのでSachaさんから彼女の家に招待してもらい、オランダのミデルブルグに行くことになりました。日本で2015年8月Sachaさんがオランダに帰る時、ヨーロッパでまたお会いしましょうという話をして別れたのですが、3年後の今年2017年、今年本当に会うことができました。
また、私と同じように去年10月より日本の筑波大学からドイツのコットブスのブランデンブルク工科大学で交換留学をしている長谷川千紘さんも一緒にSachaさんの家に行くことになりました。長谷川千紘さんは藤原研究室で行われる天草フィールドワ、毎年新入生歓迎会として藤原研究室のメンバー全員が参加している牛深ハイヤ祭りなど藤原研究室で行われる様々なフィールドワークで参加して来ました。sachaさん、千紘さん、私は日本で初めて知り合いになり、日本でもよく会うことができませんでしたが、今度オランダで会うことになりました。
Sachaさんは彼女の故郷であるオランダの南西部側にあるミデルブルグ(Middelburg)からスタートして、ライデン(Leiden)、ロッテルダム(Rotterdam)、Veereまで案内をしてくれました。詳しいルートは次のようになります。
・ライデン(Leiden)のキューケンホフ(Keukenhof)
・ミデルブルグの町歩き
・ロッテルダムのキューブハウス(Cube House)、マケートホール(Market hall)、ペンシルハウス(pencil House)、ロッテルダムセントラル(Rotterdam Central)
・Veereの町歩きやSachaさんが働いているパン屋訪問
まず最初に行ったライデン(Leiden)のキューケンホフ(Keukenhof)から話たいと思います。
アムステルダムから約40㎞のところにあるキューケンホフ(Keukenhof)は、1年に数週間しかオープンしない世界最大のフラワーパーク「キューケンホフ公園」のことで、毎年春の3月から5月まで8週間開園していますが、2017年の今年は3月23日から5月21日までの期間開園です。場所はアムステルダムからキューケンホフでは、毎年変わるテーマに合わせた企画展があり、2015年は「ゴッホ」、2016年は「黄金時代」でした。2017年は「ダッチデザイン」。
キューケンホフ(Keukenhof)は世界で一番大きくて長い期間続けてきている花のフェスティバルの一つでオランダを代表する花・チューリップから、ヒヤシンス、スイセン、ムスカリなどの花を見ることができます。キューケンホフ(Keukenhof)の意味はキッチン・ガーデンという意味で、元々は果物、野菜、食用植物などがたくさん栽培されましたのでキッチン・ガーデンとして活用されていましたが、1949年から春に花を咲くフェスティバルとして発展し1950年から始め66年目です。このフェスティバルをためキューケンホフ(Keukenhof)チームは去年9月から3ヶ月間700万個の球根を植え、春に花を見ることができるということです。
現在、チューリップと言えばオランダを思い出すほどオランダの代表的な花として世界で認識されていますが、もともとチューリップはトルコが発祥でオランダには1593年に、ある植物学者により導入されました。16世紀後半、トルコからオランダに入った後、一つの色だけを咲けたチューリップは様々な色やストライプの模様を持っている花まで栽培され、様々な品種ができるようになりました。様々な品種のチューリップを栽培して様々な形・色・模様ができますが、それは栽培方法には関係なく偶然でできるもので、多くの人が球根の収集家になり、趣味の対象にもなりました。多くの人々の趣味の対象となったことで、オランダでのチューリップ栽培は急速に広がって行きます。チューリップの球根の需要が多くなり、高い値段で取引され、教養、ステータス、豊かさを表すものとされました。当時は商業的に黄金時代への過渡期で、多くの人がお金になるチューリップの事業をし始め、供給量が増えました。しかし、流行が過ぎ、チューリップの値段が下がると、オランダは経済的に危機を迎えました。このバブルのような現象は、過渡な投機の結果として残っていますし、オランダの経済に大きい打撃になりましたが、チューリップがオランダの歴史に及ぼした影響力は大きいとのことです。
続いて、Sacha Oomsさんの古里オランダのミデルブルグ(Middelbrug)の町歩きに行きます。
ミデルブルグ(Middelburg)はゼーラント(Zeeland)州の州都であり、人口は約4万人、ミデルブルグという意味は名前が中央・真ん中のミデル(middel)という言葉と城市のブルグ(burg)を合わせ、中央都市という意味もあります。またミデルブルグは海に囲まれているのでその地形を活かして貿易の中継地として繁栄してきました。
貿易によってミデルブルグの港は広がって行き、17世紀まではオランダで一番大きい貿易都市でありました。
1123年にはミデルブルグに修道院が建てられ、修道院を中心にミデルブルグはゼーラントでの宗教、貿易や政権の中心地として発展し、1217年には都市権を取得しました。修道院は大修道院として発展しましたが、1492年の大火事で消失し、再建されました。しかし、16世紀の宗教改革(The Reformation)でまた深刻な被害を受けることになります。1年後、スペインとの八十年戦争でミデルブルグはスペインの国王に忠誠を尽くし続けたのでそれ以上の被害は避けることができました。
しかし、第二次世界大戦になり、ミデルブルグを含めたゼーラントはドイツに激しい爆撃を受け、フランスによる大砲で街は破壊されました。さらに第二次世界大戦の後の1953年、自然災害によってゼーラントは洪水に見舞われましたが、幸いにもミデルブルグは殆ど被害を受けませんでした。第二次世界大戦や洪水の後、ミデルブルグの歴史的な建物は再建されることになり、昔の様子に戻ることができました。
実際回ってみるとミデルブルグは小都市でしたが、昔の悲しい話は思い出せないほど自然がとても豊かで空気も澄んで海も緑も綺麗なところでした。
私は普段、田舎より都会に行く方が好きでした。その理由としては持続的に発展して行く都会では常に新しいものに接することができるからです。しかしミデルブルグの町歩きを通して静かで落ち着いた雰囲気の綺麗で豊かな自然に触れ、都会とは違う魅力を味わうことができ、改めて田舎の良さを実感しました。
ロッテルダムのキューブハウス(Cube House)、マケートホール(Market hall)、ペンシルハウス(pencil House)、ロッテルダムセントラル(Rotterdam Central)やVeereの町歩きやSachaさんが働いているパン屋訪問については「オランダでSacha oomsさんに会いました!その2」でまた続けて行きます。M2 張 榮