↑は11月14日に上海大学で行われた日中韓文化政策の会議において発表なさった先生たちです。
文化政策中日韓都市間戦略対話と博士号制度実施30周年記念の博士課程学生発表会に参加してきました。
期間:2015年11月12日(木)~17日(火)
場所:上海大学
日本側からの参加
伊藤裕夫先生、
太下義之氏(三菱UFJリサーチ&コンサルティング)
野田邦弘先生(鳥取大学)
藤野一夫先生(神戸大学)
ウラジミール・クレック先生(神戸大学)
鬼木和浩氏(横浜市文化観光局)
藤原恵洋先生(九州大学)
神戸大学の藤野先生のゼミの学生のみなさま
九州大学からは、馬麗娜 岩井千華 藤原旅人
スケジュール
11月12日福岡~上海へ移動
11月13日 15:30~16:30 上海大学で開会式と各国代表先生たちの挨拶。
集合写真。食事会。
11月14日 午前:Jia先生からこの会議の趣旨説明と中国の先生たちからのお話。
藤野先生、藤原先生を含む5人の先生の発表。
午後:太下氏、野田先生、伊藤先生を含む6人の先生たちの発表。
11月15日 午前:藤野先生を含む7人の先生たちによる発表。
分科会形式でそれぞれの部屋で学生及び博士号取得者による発表
(1人10分程度)
午後は、日本からの参加者はそれぞれの視察の場所へ。
11月16日 日本からの参加者は、それぞれのフィールドワークへ。
九大の藤原先生、神戸大学藤野先生、馬さん、旅人さん、
神戸大学の希望者などの方々は周庄(水郷)へ。
太下義之氏、岩井は午後上海図書館視察
(館長と国際部のシェンさんご対応)
11月17日 朝8時 空港へ向け出発
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【11月12日(木)】福岡空港を3人で出発。藤原先生は別便で上海へ。
ところが!上海に着いたものの、3人組は藤原先生は出会えず!
上海大学からのお迎えは藤原先生のところに行っているので3人組は先生と会えない原因がわからず、ウロウロオロオロ。「どうしよう。」
藤原先生の方が3人組を探してターミナルを移動してくれました。―ほっ。
会えなかった原因は、3人組の飛行機が先生とは異なるターミナルに降りたため。
―3人組は後になってそのことに気が付きました。
空港から1時間ほど車で移動し、郊外のホテルへ行きました。
宿泊先に到着しました。
今回の【上海文化政策対話】を主催されたJia先生です。↓
伊藤先生をはじめとする先生たちと合流しこの日は宿泊先のホテルでお食事。
3人組は食事で満足したにもかかわらず、この日できたという近くのコンビニへ行きました。Easy Joy.
「命の水」なのですね。
【11月13日(金)】
この日は3人で地下鉄移動し、上海を見てまわることにしました。
上海の地下鉄では、手荷物チェックがありました。
予想以上の沢山の人々。人口3000万人はいるとのことです。まず、外灘(ワイタン)へ。
ここは外灘(ワイタン)。藤原先生の『上海~疾走する近代都市』(講談社現代新書)によりますと、
「外灘(バンド)は、元来『築堤』を指す言葉であったが、一方で、イギリスによって築かれた港湾居留地特有のウォーターフロント空間をいうようになった。」ということでそのプロムナードを歩いてきました。(昔の上海租界)。 まさにウオーターフロント。
「さらに建物の連なりは上海を象徴する景観のシルエットを生み出し、世界で最も有名な通りのひとつに数えられた。その一方でこのバンドは<偽りの正面>といわれ、上海に宿命的な近代の歴史へ、大きな導入を与えてくれる。すべてはこのバンドに始まりバンドに帰る。近代都市上海の創業の地、外灘とはそんな場所なのだ。」
あちらは、プロムナードから浦東陸家嘴金融貿易区を見た時のもので摩天楼群です。ここは1990年に国家プロジェクトが始まったことにより現在の姿になったようです。観光客の多くはこの摩天楼群をバックに写真をとっていました。
↓は上海浦東発展銀行(旧香港上海銀行)の「ネオ・グレコと呼ばれたファサード」が好きです。
この設計を担当したG.L.Willsonはみずからこの様式を解説して「ネオ・グレコ・スタイル」とよんだそうです。信用や格式を重んじる金融資本の建築に古典様式を用いることは常套手段とのこと。
藤原先生の『上海~疾走する近代都市』p24-p26によると、
「ウィルソンはファサードの中央に数階分の高さを持ったジャイアント・オーダーを六本おき、うち四本を二本ずつ並べるカップリングとし、独特の列柱意匠を与えた。幅の広い外観をもち、威風堂々とした様子をあらわす一方、垂直方向へはルネサンス建築で見られる<三層構造>を用い、下層から軒部に向け、表面石張りのルスティケーションの程度を順次、低減させていく。これは視覚的に高さへの効果を増す方法として名高い。高い中央ドームの存在も加え、上昇感への期待のみならず、立面中央への求心的な意匠が意図されたと見られよう。20世紀の古典理解にのっとった新古典主義建築の象徴性はここにきわまった。同時にこの建築は、当時の上海がイギリスやアメリカなどの本国に劣らない都市の力をもっていた象徴であった。19世紀の植民地主義が世紀を超えいよいよ帝国主義段階に入っていく。資本そのものが現地で形成されるようになり、金融資本はその中心となった。イギリス外商たちの資本をバックにした香港上海銀行は、上海の金融資本の筆頭として、経済界に君臨していく。その時、植民地の宗主国がひしめく欧米と時差をもたない建築が登場した。この時代の建築とは、そういう時代の性格を象徴したものであった。しかしだからこそ、偽りであったといえよう。外国人建築家の手になる優れた建築がもたらされたとしても、ここが極東の地である限り、西洋建築の登場はあくまで疑似ヨーロッパの表現にしかすぎない。日本でいう「洋風」や「洋式」という言葉の意味はここにある。半植民地となった租界を代表する景観が、担い手の母国の建築表現を連ねたところで、ここはあくまで中国にすぎない。「偽りの正面」とは、そうした上海の疑似王命的空間を示す表現であった。建築の様式がすぐれて欧米に近づけば近かずくほど、疑似性はきわだち、上海の<偽りの正面>は強く宣伝されたのだった。」
なるほど。植民地という時代背景があって、あくまでも西洋人が西洋人のために作った建物なのですね。本国に劣らないことが重要だったから、このような西洋の正面なのですね。歴史を知り納得しました。
突然の牛の出現にびっくりしました。この時はわからなかったのですが、後で調べてみると、牛は、イタリアの芸術家アルトゥールモディーカ氏による重さ2.5トン、長さ3.2m高さ3.2mの巨大な銅像。力と勇気の象徴の牛として金融市場がいつまでも活況あるよう願いを込めて2010年の上海万博の年ににつくられたそうです。
外難から豫園(ユイエン)に移動します。私が上海に行く前、ニュースでこの豫園の名前をどこかで見ました。
帰国後調べてみると、この豫園を運営している親会社が北海道のトマムリゾートを買収していました。
豫園はショッピングモールのようでした。
ハンコを作ることができないか、良い店を探しました。
↓いろんな食べ物がいっぱいありました。
回転寿しは、sushi express.
藤原先生が昔利用したであろう小龍包のお店に立ち寄ります。混んでました。
↓ここの1Fのハンコ屋さんに篆刻をお願いしてありました。
馬さんに値段交渉をしてもらいます。全員で5本買って、ひとつ1000円になりました。
ちょっと高いと思いましたが、お茶をいただきました。
↓これが中国のお茶の飲み方なのですね。
窓の外。
ハンコもできました。
イスラム教のモスクとのことです。
イスラム教の方が食べることができるパン↓
宿泊先に一旦もどります。
この後 参加者全員で集合写真をとりました。
食事は先生たちとは別の部屋でした。
この日は、この後宿舎へ帰りました。
私にとっては初めての上海。3000万人はいるのではないかといわれる人口には驚きました。
この日、行った外灘と豫園はどちらも全くの観光地やショッピングセンターで、あちらを見てもこちらを見ても、人・人・人で、ショッピングセンターでお買い物を楽しんでいる人をみても、記念写真ばかりをとっている人をみても私にはあまりピンと来るものはありませんでした。本来の上海の姿が全くわからなかったからです。商業的発展をすることも国の発展過程としては必要かと思うのですが、それで本来の上海が薄くなってしまっては、本末転倒のように思えます。上海は植民地ではなかったものの、租界があったところ。西洋を否定しながらも西洋の文化を上手に呑み込んでいったかのように思えました。ー外灘のファサードや建物の一つ一つはもうちょっとみてみたいです。東洋なのに西洋の建物。しかし、不思議と違和感はありませんでした。
岩 井