建築史家でまちづくりオルガナイザーこと、藤原惠洋(ふじはらけいよう)教授の活動と、通称ふ印ラボ(ここで「ふ」の文字は意味深長なのでちょっと解説を。ひらがなの「ふ」は「不」の草体。カタカナの「フ」は「不」の初画を指しています。そのまま解釈すれば「つたない」かもしれませぬ。しかし一歩踏み込んで「不二」とも捉え「二つとないもの」を目指そう、と呼びかけています。ゆえに理想に向けて邁進する意識や志を表わすマークなのです。泰然・悠然・自然・真摯・真面目・愚直を生きる九州大学大学院芸術工学研究院芸術文化環境論藤原惠洋研究室というわけ、です!)の活動の様子をブログを介して多くの同人・お仲間・みなさまにお伝えしています。 コミュニケーションや対話のきっかけとなるようなコメントもお待ちしております!
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九州大学大学院芸術工学研究院では、10月になり、後期がはじまりました。
一般市民向けとも言える社会貢献プログラムとしての九州大学芸術工学部公開講座も新たな後期分が開講しました!!
 

建築探偵シリーズ(その13)は、昨年度後期に続き「汎美計画から芸術工学へ」の第2回目、となります。
スケジュールは全6回。各講義は以下のとおりとなります。

まず第1講は2015年10月7日(水)18:30~21:00に開催されました。
 後期公開講座チラシ
  2015年度後期九州大学芸術工学部公開講座 建築探偵シリーズ(その13)


「汎美計画から芸術工学へ~芸術工学の創造者小池新二(九州芸術工科大学初代学長)の戦前期デザイン思想と戦後の実践を巡る物語(その2)」 

1回 デザインイデオローグとしての小池新二~「汎美計画」から「芸術工学」「ミッシング・テクニシャン」「技術の人間化」へ~


 【講師 藤原惠洋先生のよる趣旨説明】

当公開講座の大前提として、まちや暮らしや生活空間のなかに分け入りながら、どこかへ行きながら路上の観察行為や探偵という行為、フィールドワークを媒体として、生活者の方々の喜び悲しみ楽しみおかしみ謎を見つけ出し、それに対して私たちなりの物語や解決を与えていこう納得を与えていこう、と建築探偵シリーズと銘打つ連続講座を始めました。


 一方、私自身は歴史家でもあり理論家なので、理論研究の成果も数多く生まれており、それを皆さまにお返ししたいと公開講座を発想していったのです。

 そこで毎年の公開講座のプログラムは、夏場の前半にフィールドワークを一つ、秋場の後半に
理論を一つ、ということで組み立てをしました。
 今年のことですが、前期は世界遺産を有する非日常的な場所と人間の創造性がどのような相互作用や触発を生み出すのか、それを芸術創造活動を通して見つめ直してみたいと考え、北部九州を中心とする「明治日本の産業革命遺産群」等を尋ねながら、芸術・文学・映像・詩をかく・歌を歌うという芸術表現活動をかけ合わせながら楽しんでみました。
 

 後期は、静かな秋となります。そこで腰を落ち着けテーマを深めていきます。昨年度から始めた旧九州宇芸術工科大学学長であった小池新二先生を振りかえる、というテーマがそれです。
このテーマは、今後
年にわたり2018年まで継続していく予定です。この年というのは、九州大学芸術工学部の前身旧九州芸術工科大学がこの世に生を受けまして50年目、半世紀目の記念すべき年になります。その2018年まで、毎年秋のひと時に小池新二先生を振り返るシリーズを連続して開催し続けていきたいと思います。


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 【小池新二先生への関心、関わり 藤原惠洋先生から見た小池新二とは?】

 私が研究者として歩みだしたのは、1988年の千葉大学助手時代から、となります。着任先は千葉大学工学部工業意匠学科第一講座でした。奇遇にも初代の教授が小池新二先生でした。そのことを千葉大へ着任した後で知ったのですが、もとより私が専門とする建築史学の中にたびたび小池新二の名前が出て来ていたのです。
 しかし私の中ではさほど意識することもありませんでしたが、その4年後に九州芸術工学大学芸術工学部工業設計学科へ異動する際に、初代学長だったと再認識し気になりかけていきました。
 今でも本学芸術工学部の旧
九州芸術工学大学学長室、今の学部長室に行きますと小池新二先生のご立派な肖像写真が飾ってあります。このあたりから意識しだしまして、ご縁を感じるようになりました。
 しかし一方、私の手元には以前蒐集した建築古書籍の中の一冊『汎美計画』というものがありました。東京の赤坂にあった古本屋で手に入れた古本でした。
 名前が壮大です。『汎美計画』。そして巻頭の序には「世にあるもの須らく美しくかるべし」と「私の夢」が念じられており、「
総ての「造形」は、「生活」から出発する。高遠な理想から卑近な日常の起居に至るまで、戦ふ民族の活動から憩ひ眠る個人の動作に至るまで、力強い生活の営みがあってこそ初めて造形の華は開く。斯くて生活は「汎美計画」の基礎である。」と堅固な主張が記されていたのです。
 

 この本は、私が本学に移ってくる頃、半分くらいは読んでいましたが、全く小池新二先生という方を意識しておりませんでしたので、世の中をあまねく美に至らしめる、なかなか素晴らしいことだけれども、観念で終わってしまえばしかたがないことだ、そんなことってできるのだろうか、とややいぶかしく思っていたのです。

 しかし不思議なご縁を感じるようになって、あらためてこの『汎美計画』を読み直しました。そして一番驚いたのは、この論集が、大学を卒業後、戦前期の日本で15年間、さまざまな立場で仕事を展開される中、書き散らかされたものを集めた論集であり、発行された年が戦時中の昭和18年(1943)だったということです。
 戦争の真っ最中に『汎美』の概念を提示すること。そして「今、民族の一員として新しい世界へ達する新しい道を求めている」と意味深長なことが記されていました。これよりこの謎の人物小池新二先生、それから、謎の『汎美計画』を解釈するしか無いと考え再読を重ねていきました。さらには、私が所属する九州大学大学院芸術工学研究院を貫く「芸術工学」という考え方にしても、九州芸術工科大学創立理念にうたわれた「技術の人間化」にしても、いたって独特で時代の中にあって先鋭的です。
 ひと手間、ふた手間、ひとひねり、ふたひねり、何かが、このようなオリジナルの中で模索されながら、実際に実践されている凄さというものがあります。
 弁証法の世界からみれば、このような掛け合わせは当たり前だったかもしれないのですが、いたって目的的にすべての出来事がささやかな自分の役割や領域だけを行きて行けばいいと
功利主義ばかりが一人歩きして行く閉じ込み合う現代の時代性の中で、気宇壮大な汎美計画という概念提示やまだ見ぬ世界に対する挑発のような小池新二先生の世界観を振り返るのは、私自身の生き方も大きな力をもたらしてくれるのではないか、と思うようになったのです。


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【九州芸術工学大学創立と小池新二先生】

 これは昭和43年11月4日の地元の新聞です。「歩み始めた九州芸工大。発足して7か月」という話が西日本新聞で紹介されたものです。さらに一期生の学生と教授陣が一緒に食事をしている、というのです。
 学生食堂は教授も学生も明るく話が弾む。
 
ワクワクする記事です。私は、この間、何度か訪ねたドイツのデッサウのバウハウスの白亜のメインビルディングの半地下にあったレストランを思い出しました。
 1968年4月に大学が開学されたのですが、じつはこの大学以外は、激しい大学紛争の時代でした。翌年には伝統ある東京大学の入試がとりやめざるを得なくなるような怒涛の時代だったと思いますが、それとは対照的に学生食堂は教授も学生も明るく話が弾む、とあるのです。
 ここには音響設計学科の牧田先生が登場されておられますが、
初代学長小池新二先生とともに山岳部を創設されたり、次の学長選挙対抗馬として出馬された先生だったと伺っています。
 
 こういう歴史的な資料を数多くのOBOG先輩諸氏たちから見せてもらいながら、跡付けてやっているところです。

 この中で非常に面白い記事がございます。私が注目したものは「ユニークな講義も」
 講義の組み立ては1919年から1933年に、ドイツのワイマール、デッサウ、最後はベルリン、と流転しながら続けられたバウハウスに範を得て行ったと言われます。世界の産業や経済やデザインに大きな機能主義デザインの影響を与えたバウハウスのカリキュラムを旨とする、と先人達の努力がなされたのです。
 しかし同時に、1968年は来るべき情報化社会が始まっていますので、システム工学や情報工学を科目として用意していました。
 一期生の方々のお話も載っています。年次進行で形成されていく教員組織のための先生探しにも奮闘されたようです。創設期は一般教養の先生たちが必要です。続けて2年、3年、4年と学年進行にあわせ、専門の授業が始まっていきます。
 私が着任した1993年の頃も、九州芸術工科大学のカリキュラムは楔形と申しまして、他の国立大学が1年半ないし2年はえてして、徹底的に教養教育をやり、それから専門課程に進学するというやり方をしていたことに対して、1年の頃から専門の勉強、特に造形とか表現とか、そういったものをやりつつ、それが2年生3年生になるとカリキュラムがもっと、膨らんでいく、だからこそ
楔形のカリキュラムを特徴としていました。そこで専門課程の先生をちゃんと用意しなければならない。
 「先生探しに懸命」。これをおやりになっていたのが小池先生です。世界各地へリクルートに駆け走っていたのです。創設された九州芸術工科大学へ来て教育・研究に携わっていただけませんかと、小池新二先生がみずから声をかけていかれたとのこと。たとえばロンドンにいた香山壽夫氏を九州芸術工科大学に招いたのも小池新二先生みずからのことでした。

 

【九州芸術工科大学への熱い想い】
 香山壽夫先生は、みごとそのお話に乗ることになりまして、ロンドンから九州芸術工科大学
環境設計学科に助教授として着任されました。教育研究に加え新キャンパスの建築設計を手がけられました。
 新キャンパスのデザインそのものが建築教育の素材やカリキュラムとして重要な意義を有するということで、一期生の方々と手を携えられ設計をし、次々とほんもの校舎として実現されていったのです。一期生から四期生の方まで、素晴らしい体験をなさっておられるのです。


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【小池新二先生の略歴】

 
1901年の11月23日にお生まれになりまして1981年5月4日にお亡くなりになりました。享年79歳。
 1901年生まれは昭和天皇と同じ年です。
 それから府立一中、東京府内ではなくあえて旧制松本高等学校に進学。そこから東京帝国大学文学部美学美術史学科に進学されました。
 東京帝国大学の同級生には
文芸評論家で文化勲章の小林秀雄、内閣書記官長を務めた終戦期の迫水内閣官房書記長等のエリートが続出でした。


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【森下明彦先生による「小池新二」分析】

 元神戸芸術工科大学教授でメディアアーティストの森下明彦先生が本学OBとしては小池新二先生研究の第一人者と言えます。昨年度の本公開講座で講義をして下さった時に、小池新二先生を考えるパラダイムを提示なさっておられます。今回は森下先生の資料をレビューするかたちで、昨年のお話をふりかえっておきます。これによれば、小池新二先生にはじつに多面的なお姿があったということです。

 
産業工芸やデザインに精通しながらも、東京帝国大学で美学美術史を修めた後、産業工芸振興やデザイン振興に生きていかれる、というのは決してメインストリームではないと思うのですが、ユニークな人生を過ごされたのだと思います。

 森下先生の小池新二論によれば、いろいろな側面を総合化していったのが小池新二先生のほんとうにすがではなかったか、と指摘されていました。
 戦前期より世界中のデザイン事情や産業、経済、流通、文化等の情報紹介者であり、翻訳活動家であり、目利きとして海外からの莫大な書籍や雑誌を翻訳し紹介されています。海外のデザイン運動、建築運動、人物、組織、動向の紹介、テーマは幾多にも及んでいます。
 20世紀初頭、ドイツで展開したドイツ工作連盟の影響を受ける形で、日本には日本工作文化連盟が生まれており、その機関誌に編集者として関わっておられた。戦後も復興期に神戸博覧会と横浜博覧会の2度の大きな博覧会をプロデューサとして遂行されていました。
 その後、教育者として千葉大学工学部工業意匠学科、九州芸術工科大学を牽引され、さらにはその後、福岡市美術館、そこから福岡アジア美術館へ至るアジア美術やアジア芸術に対する射程を既にお持ちだったのではないか、・・・・・・・
 
森下明彦先生のお話を通して、小池新二先生の多彩な相貌が非常にわかりやすく伝えられていったのでありました。


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【藤原先生による「小池新二」先生の分析】
 
私の大きな小池新二観では、デザインイデオローグと位置づけたい。イデオローグとは、哲学や思想で大衆を引っ張っていく先導者のことをいいます。そこから見て行けば、戦線から戦後へかけての時代における現代日本黎明期のデザインイデオローグだったのだろうと思います。

 19世紀、産業革命期以降のヨーロッパにおけます、デザインの成立と展開過程を実によく把握されていました。ドイツ語・英語等の原書を文献解釈しながら内容を理解し、それを日本に置き換えていこうとしている。ある意味では小池新二先生の活躍・活動はポストコロニアルそのものです。
 日本の近世から近代にかけては、まず16世紀以降、イベリア半島からもたらされた影響下にある、次に鎖国を経て19世紀のペリーの来航以来もたらされた西欧列強の影響がある中、地球全体に影響を与える大きな枠組みの中で、日本もまた植民地時代に巻き込まれざるを得ない中でも、賢明な人物は支配者に対し自分たちの賢明さをもってして対等に戦っていこうとしていった。
 小池新二先生の構え方もまた、そういうことだったのではないか、とポストコロニアルの中で被支配側の日本の賢明な一人としてちゃんと応えていく、そこから
戦前期の言説の集合体として編まれた論集がこの『汎美計画』だったのではないかとと考えています。

 
 さらに小池新二先生は「ミッシングテクニシャン」という考え方を展示されています。いまだ繋がっていない大きな欠落のことをミッシング、それからこれをつないでいくことをミッシングリンクというわけです。そのミッシングリンクの活動をスキルを持った、テクニックをもった人間として、間に入ってつなぐことによって社会をもっと富ませていく、デザインとはそういうことではないか、というのが小池新二先生のデザイン論・デザイン観だったです。本公開講座では、芸術工学の概念をミッシングテクニシャンの基盤からひもとき起こしていきたいと考えています。
 芸術でも工学でもないんだ。芸術工学というミッシングリンクをここに持ってくることによって、繋がらなかった何ものかをちゃんとつなげていこうという行為なんだということがおわかりになるのではないかと思います。これは単に建築を指す、グラフィックデザインを指す、サウンドデザイン指す、ということではないんです。社会全体に対して与える挑発と考えることもできます。

【小池新二と福岡市美術館】
  
 昨年は、安永幸一先生にも特別講師としてお話をしていただきました。福岡市美術館は開設へ向けての特別企画をアメリカ現代美術展で進めていた際に、痩身の小池先生がやってきて「アジアで行こう」と一言おっしゃったことによって企画が入れ替わった、というのです。
 福岡市美術館の準備室におられた安永先生には、じつに苦々しいことだったとおっしゃったのです。

 小池新二先生の一言で、福岡市美術館はアジアシフト化したのですとおっしゃった時、受講生はどよめきました。「どうしてアジアとおっしゃったのだろうか。」率直な疑問もわきました。
 いろいろ考えるところもあったと思われますが、実は『汎美計画』には後半四分の一がアジアを論じる仕掛けが用意されていました。既にこの頃次の時代にアジアが重要なフィールドなのだとよまれていたのです。1943年の「汎美計画」のアジアが、1979年にできました福岡市美術館の創立をアメリカからアジアに大シフトさせることになりました。



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         ~休憩時間の様子~

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 ~後 半~

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 【小池先生とよろず会、芸工「勧進」】
 千葉大学OBOGの方々は長年小池新二先生を囲んだ「よろず会」を生み出されていました。就職後、横断型もより幅広くより深く世間を見る目を涵養しながら、自分のデザインの仕事に反映していきたい、とサロン的な勉強の場を設けられて行ったのです。
 小池先生を担ぎ出すしかないだろうということで、
1965年から2001年まで
営々と「よろず会」を180回も開催されました。小池先生が九州芸術工科大学に着任されたのは1968年のこと。それ以前から千葉大学OBOGは、小池先生を担ぎ出して「よろず会」をやっておられたのです。

 文化人類学者の梅棹忠夫先生をはじめ各界の名士を招きながら料亭や割烹で集いを開催、良き話題、良きもの、良き人との出会い、を小池新二先生が提供してくれる。
 良き人の話を聞く、良き人が作った良き本を読み、良き場所にフィールドワークに行く、よろず会はその3つのことを常にかなえていくような魔法のような会だったとのこと。
 
 実はこの大人のよろず会に対して、小池先生が九州芸術工科大学に行かれた後、学生諸君に対してもこのよろず会のようなものを提供したいということで始まったのが「勧進会」になります。

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1991年、小池新二先生逝去後10年を振り返ったフォーラムが横浜で開催されました。工業設計学科1期生の池亀拓夫氏が全体をプロデュースし、各界の方々が懐かしい小池先生を論じ合われました。
 

諸星和夫氏撮影の小池新二先生のお写真の一枚です。

 さて本講座では、『汎美計画』、「芸術工学」、「ミッシングテクニシャン」、「技術の人間化」、こういう時代時代を画するような概念を見極めてみたいと考えました。

 次回は、戦前期の小池新二先生を振り返ります。実は小池新二先生の思想やデザイン観は戦前期にほとんど培われています。「海外中央文化局」を媒体として一体何をしていたのか、それが一体どういうことだったのか、をお伝えしたいと思っています。


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 九州芸術工科大学 環境設計15期の徳永さん。↓
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 【質問】
 小池先生は戦前戦中どのような思いでやってきたのか、思想的にどういう方だったのか?

 1901年生まれで昭和天皇と同じお年となります。太平洋戦争が始まりました年に小池先生は3839才で、終わります時が44〜45才です。国の政策中枢に戦前の商工省あたりの嘱託技師などで入っておられます。
  そんな中で小池先生は戦争中のど真ん中に『汎美計画』を発行されたのです。
 ここには時代なのか、ナチスドイツのデザイン計画や全体主義国家のデザインの紹介が多々なされています。戦後、小池先生は「私はあの頃ナチスとよばれていたけれども」と
述懐されています

 『汎美計画』の中で、最初はわからなかったのですが、たどり着いたのが普遍性というもののあり方です。実は日本のコミュニティを見つめ直すと、ゲゼルシャフトよりはゲマインシャフトの方が素晴らしいと書いてある。ゲゼルシャフトは会社組織のような人為的につくられた社会組織のことです。それより自然発生的に生まれた村社会がもたらすゲマインシャフトの世界にこし、人の営みを動かす仕組みが隠れていると指摘されている。そこから美というものが持つ普遍性でみんなを包み込んでいきたい、とも。昨年度の講座を通して武田先生、諸星先生、森下先生、安永先生にもお話いただいたもですが、全体を通してなかなか壮大な人格や資質のお持ち主であり非常にユニークな先生だったと考えることができると思います。

 こうした小池先生に対する思いを何らかの形で結実させたいと思っています。どうもありがとうございます。

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                                         岩   井










 



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