建築史家でまちづくりオルガナイザーこと、藤原惠洋(ふじはらけいよう)教授の活動と、通称ふ印ラボ(ここで「ふ」の文字は意味深長なのでちょっと解説を。ひらがなの「ふ」は「不」の草体。カタカナの「フ」は「不」の初画を指しています。そのまま解釈すれば「つたない」かもしれませぬ。しかし一歩踏み込んで「不二」とも捉え「二つとないもの」を目指そう、と呼びかけています。ゆえに理想に向けて邁進する意識や志を表わすマークなのです。泰然・悠然・自然・真摯・真面目・愚直を生きる九州大学大学院芸術工学研究院芸術文化環境論藤原惠洋研究室というわけ、です!)の活動の様子をブログを介して多くの同人・お仲間・みなさまにお伝えしています。 コミュニケーションや対話のきっかけとなるようなコメントもお待ちしております!
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  筑前町立大刀洗平和記念館に行ってきました。

 以前、ある調査をした時「蛸壺特攻隊」を経験したことがあるという方に出会い、その方の人生全体を聞き、心が重くなったのを覚えています。それからは機会があれば戦争のことを知っておこうと思っていました。
 
 大学からそう遠くないところにあり、研究室と関係のある現・菊池市(熊本県)においての南北朝時代の武将、菊池氏15代当主の菊池武光公が太刀についた血糊を洗ったところから地名がついた、そして、鉄川与助という大工の棟梁が1913年に建てた今村教会が近辺にあります。この町の駅前に平和記念館はあります。
 
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 ↓ここは以前に個人で行っていた平和記念館。
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 大刀洗駅の周囲の様子。
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 菊池武光公が刀を洗ったの碑。
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 1916年に陸軍が計画し、1919年10月に完成した日本で4番目の陸軍飛行場、大刀洗陸軍飛行場。時の経過とともにこの飛行場を中心として基地は大きく、西日本における陸軍の拠点になります。知覧が有名ですが、ここは大刀洗の分校の一つで、操縦訓練のための施設だったとのことです。
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 まず、この地を選んだ理由は、飛行場に適した建物のない広大な土地があったこと。大陸に近かったことがあげられます。1937年の日中戦争以後、施設が増え、陸軍航空兵の飛行機教育機関になり、太平洋戦争末期には、ここから特攻にいった人もいました。1945年3月27日と31日には、アメリカ軍の空爆をうけ、この基地は破壊され、周辺に住む人々も多く亡くなりました。
 
 大刀洗陸軍飛行場は、旧陸軍が東洋一を誇ったこの洗飛行場とそこを中心とする大きな街があったそうです。軍の基地には1500人の人がいて、周辺には百貨店、小売り、宿泊施設いろいろなお店が100件ほどあったそうです。鉄道も敷かれました。(以上は館内で放映されたビデオより)

 (以下のお話は副館長さんから聞きました)
 太平洋戦争末期1944年以降、ここから特攻に行った方々がいるので、勘違いされるそうですが、ここは特攻を養成した機関ではありません。特攻は1944年10月にフィリピン・レイテ島で始まったもので、それ以前はパイロットというのは人気職業だったとのことで、多くの人は、純粋にあこがれてここに来たとのこと。特攻で死ぬために来たのではありません。1928年には木部シゲノという豊前市(福岡県)出身の女性パイロットもいて、ブロマイドが出るほど人気だったとのことです。
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 記念館の中は零戦三二型以外は撮影禁止でした。

 記念館の中に入るとまず、九七式戦闘機が目に入ります。九七式は縦11m、翼のある横が8.5mで富士重工によるものとのことで、当時の金額で3万円。陸軍がこちらを使ったようです。今なら一体どれほどの価値になるのでしょうか。当時、陸軍では最も多く特攻に使用されたとのことです。ここに展示されているのは、1996年博多湾内で発見され、引き揚げられました。旧陸軍の九七式戦闘機ということがわかり、修理されました。

 飛行機は2機あり、九七式戦闘機の他にゼロ戦三二型がありました。

 特攻に行った若者の遺品や家族への手紙も展示されていました。
若者の年齢は18歳から23歳で、手紙全体ではなく部分的にですが、いくつかメモをしてきましたので書きます。
 「而一死以て神州護持の礎石たり得るは日本男児の本懐…」
 「爆弾抱えて愛機と沖縄決戦場に馳せ参じます」
 「行くからは 又 還りきぬ あづさゆみ 魂となりて皇国守らむ」

 当時は検閲があったと考えられるので、これが本心かどうかわかりませんが
 手紙の字は大人が書く文字、きれいな字でした。とても20歳前後の人に字には見えませんでした。
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 これは世界で唯一現存する零戦三二型です。縦が9m、翼を含めた横が11m三菱重工によるもので、海軍が使っていたとのことです。当時はこれで2000キロ以上の飛行距離に耐えられたそうです。機体はジュラルミンで、軽くするために穴をあけてました。燃料は沢山もっていたとのこと。当時の金額で一機5万円、今ならどのくらいの価値でしょうか。
このような零戦を一万機以上作っていたそうです。国家予算の多くを戦費にあてていたのかなあと思うのです。
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 この建物の天井部分にアミで平面に形どられたB29がありました。実際のB29は零戦の長さ4倍、重さ30倍とのことです。縦30m、横43mとのことです。
 1945年3月27日と31日、B29がこの大刀洗の飛行場を含む地域を空爆しました。これにより、多くの人が亡くなりました。しかし、アメリカはじゅうたん爆撃をしたのではありません。この大刀洗飛行場を中心とした攻撃用飛行機・飛龍があるところを空爆しました。鉄川与助が棟梁を務めた「今村教会」は大刀洗にありますが、空爆により破壊されていません。空爆の目的は、この軍事施設を使えなくすることだったようです。アメリカはどこになにがあるかも把握していたとのことで、ここを使えなくしてから、沖縄を攻撃しました。
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  館内のビデオによると、特攻で出撃する時は隊長がひとりひとりと涙で握手をして頑張ってきて下さいといったとのことです。また、出撃しても、天候がわるかったり、他の飛行機とすれちがったりすると返ってくることもあるようです。そんな時は怒られはしなかったとのことです。
 はじめて九七式戦闘機と零戦をみましたが、小さい飛行機で操縦席は簡単な計器と操縦桿で構成されているように見えました。これで一機一機で行ってアメリカの母船に体当たりしてどれだけの効果があったのかと思われます。
 でも当時はそういう社会状況がつくられ、この状況に反対することはできなかったのであろうと思います。

 九州にきてから、戦争で飛行機のりで終戦を迎えた人、タコツボ特攻隊をしてその後シベリアに抑留された人から話を聞きました。そして今回、大刀洗飛行場の様子を少しですが知ることができました。
 戦争当時の社会状況を体験していない私は大刀洗の平和記念館を見て、ただただかわいそうにという気持ちのみが湧いてきました。

                                 岩    井

 

 

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