建築史家でまちづくりオルガナイザーこと、藤原惠洋(ふじはらけいよう)教授の活動と、通称ふ印ラボ(ここで「ふ」の文字は意味深長なのでちょっと解説を。ひらがなの「ふ」は「不」の草体。カタカナの「フ」は「不」の初画を指しています。そのまま解釈すれば「つたない」かもしれませぬ。しかし一歩踏み込んで「不二」とも捉え「二つとないもの」を目指そう、と呼びかけています。ゆえに理想に向けて邁進する意識や志を表わすマークなのです。泰然・悠然・自然・真摯・真面目・愚直を生きる九州大学大学院芸術工学研究院芸術文化環境論藤原惠洋研究室というわけ、です!)の活動の様子をブログを介して多くの同人・お仲間・みなさまにお伝えしています。 コミュニケーションや対話のきっかけとなるようなコメントもお待ちしております!
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 2015年7月18日(火)18:30~九州産業技術史研究会7月定例会が九州大学大橋キャンパスにおいて開催されました。

この日の講師はふ印ボスこと藤原先生で、当会の会長をつとめています。
今回は専門家の観点から「佐渡金銀山の成立と展開~その普遍的価値へ」と題し、2011年ユネスコ世界遺産暫定リストに記載された「佐渡鉱山の遺産群」がその後、どのような推薦準備に至っているのか、最近の現地レポートとしてお話をいただきました。
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この間の一番大きな変更は、これまで佐渡は金銀山として世界遺産推薦準備を進めてきましたが、近年はより顕著な普遍性を求めるからには「金を中心とする佐渡鉱山の遺産群」という名称に整理することになりました。

 すでに銀山の方は島根県の世界文化遺産に登録された石見銀山が知られています。世界の産出量の三分の一にも及ぶ産出を誇り、17世紀以降の世界の銀本位制にすら大きな影響を与えてきたという顕著で普遍的な価値が評価されたものでした。そこで佐渡は金を中心に据えることにしたのだと思われます。

 新潟県の沖合位置する佐渡島は、現在、行政単位がひとつとなり佐渡市となっています。
 そこには歴史的に相川、獅子、西三川の産出地があります。世界文化遺産として登録されていくには「顕著な普遍的価値」として評価されていくために、数多くの作業指針に従って進めていく必要があり、その中でも、どのような点をきちんと評価していくのかが重要なポイントとなります。

 まず歴史的価値から。
 かつて15世紀にマルコポーロが来た時、黄金の国ジパングと称されました。このことは佐渡を指すと言われます。
 江戸時代以来の金銀銅の産出は、徳川幕府の財政の基盤として極めて重要な役割を果たしていきました。このため独特の採掘技術は秘匿され、精錬、貨幣の鋳造までが絶海の孤島とも言える佐渡の中で行われることとなっていました。そこから佐渡は天領とされました。大なり小なり金銀銅産出の役割を担っていたものは佐渡から出られず、島の中にさまざまな技術や人材が保持されることとなったのです。ある意味で、こうして守られることになった島の中での鉱山発見から採掘産出、精錬、貨幣鋳造までの全体性が極めて重要な意味を有することとなりました。また江戸時代の採掘技術・精錬技術の多くは西洋技術の影響と導入によるものであり、佐渡の農業や生活文化へ伝播し、さらには全国各地へ伝播していったのです。

 こうした江戸時代から明治以降の近代にかけての足跡が数多く存在しています。さらに明治20年代以降は三菱財閥が金銀山として運営していきますが、江戸時代が最も産出量が多かったようで、これは近代以降の技術をもってしてもかなわなかったであろうと言われています。極端なことを言えば、地球上の人類が獲得した鉱山技術の全てをここでみることができるとのこと。最近の1989年の採掘休止まで記録されているだけでも、78トンの金と2330トンの銀を産出しています。

 露頭掘り、露天掘り、坑道掘りの跡を見ることができます。
 坑道は明治以前は間歩「まぶ、まんぽ」と呼ばれており、鉱石採掘をする人は「大工」と呼ばれていました。これらの技術は、江戸以前に先行した伊豆や石見の鉱山からもたらされたものです。

 山師と呼ばれる人々もいました。彼らは鉱山経営者で人夫の管理や指導をし、新しい鉱山を発見し開発します。佐渡には、17世紀には40名以上の山師がいたと記録されています。もともと一山(一坑道)の独立した経営者でしたが、18世紀半ばに奉行所から五人扶持(部下を持つことができる収入と権利)が与えられるようになり、奉行所の役人と変わらない存在になっていきます。山師はその利益を社会に還元する意味で、寺院の建立なども行いました。

 19世紀にもなると、わが国には各地に山師が複合型の産業を形成していきました。藤原先生は、こうした彼らのことを敢えてアドベンチャーアーキテクトと呼びたい、と強調されました。

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 このなかでも精錬技術は、産業技術史上、非常に重要かつ専門的で難しいものでした。近世期からの技術が明治以降には、さらに混澒法や青化精錬法に発展していきます。
 今回の現地調査で感動的だったのは、閉山後の佐渡においても、歴史上の産業遺構や技術遺構が数多く保存され、採掘からの精錬を経て鋳造に至る全部の物語をわかりやすく整理した上で、適切な情報展示がなされていました。

 新たな構築物として登場した鉄筋コンクリート造の北沢浮遊選鉱場や北沢シックナーなどの構成資産も評価し始められています。

 水銀アマルガム法は、16世紀にメキシコで開発され17世紀のはじめに佐渡へ導入されたものです。
アルキメデスポンプ(水上輪 すいじょうりん、すいしょうりん)の存在も、地下水の排水において極めて重要なものでした。地下深く掘り進む際に岩盤から染み出る地下水を排水したものです。ヨーロッパで開発されたものがオランダ人等を通じて鎖国時代の日本にもらたされたのです。斜めに配置された水上輪の中心のハンドルを回転させ、下から上へ水を順々に汲み上げ、上部の口から排出するというものです。

 
 案内は、現地の案内人石見青年。ご案内いただいた中でも一番印象的だった場所は南沢疎水道。地下に巡らされた坑道遺構の中でも、つとに知られたところと言います。

 坑道の排水用に海へ向かって掘られた全長1㎞の地下排水路。水没した坑道を復活させるため、1㎞の間を2か所から坑をほり、のべ6か所から水平方向に同時に手堀り(開削を手作業で進める)で掘り進んだとのこと。鏨(たがね)と鎚(つち)だけの手掘りで、わずか5年間で掘削し貫通させ排水しました。
 ここでも西洋の測量技術を取り入れ、高精度の測量器具を駆使する画期的な方法が導入されました。貫通した時には一気に水が流れ落ち、それまで水没していた多数の坑道が復活したとのこと。

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 明治以降近代になると、火薬発破法や日本初の西洋式竪抗、ロープウェイ、コークス炉、各種選鉱、精錬技術の導入や開発、アセチレン灯、揚水ポンプ、送風機、削岩機、捲揚機などが導入されていきました。さらには人力から蒸気力、そして電力への動力の転換があり、これらの技術は全国各地の炭鉱と相互に影響を及ぼしあいながら広まっていきました。

 
  
 展示について
 上智大学に居たジョン・ウィリアム監督による映画「佐渡テンペスト」をアメリカで開催された国際学会AASで観たことがあります。その中にも数々の鉱山跡の建物が登場します。それらの一部は写真ミュージアムとして活用されていました。
 史料と資料の展示はかなり充実しており、当時の絵図をしっかりと見ることができます。

 そして圧巻は
江戸期の「宗太夫坑」の坑道跡のジオラマ展示。迫力のある展示は明快に仕事の流れを理解することができると同時に細部までしっかりと作り込んだわかりやすい展示となっていました。
 水上輪(アルキメデスポンプ)は斜めに用いる制約があり、壊れやすく、湧水の排水がなかなか追いつかないので、昔ながらの上下方向に手汲み桶で行う排水はいかにも仕事がきつそう。過酷な労働のため人が足りず、江戸にたむろしている地方からの次男坊、三男坊などが徴用されたこともあったとのこと。堅牢な岩盤を削るため、すぐに刃毀れして駄目になる鏨を、その場で直す工夫や本田箸の開発等が展示の中でいきいきと語られて行きます。岩場に頭をぶつけないようヘルメット代わりのテヘン等、江戸時代の掘削の特徴が余すこと無くジオラマ展示で理解できるようになっています。


坑道・疎水道について 
 岩盤は非常に硬く、排水のための水路は進行方向向かって左側に作られていました。
 一日でどれだけ進んだかという、作業経緯を示すマークもあり、仕事の苛酷さがわかります。数日かけて数メートルなどほとんど掘り進められていないところもありました。
 1601年~1990年に至るまでの鉱山全体での産出量を知らせる立て看板もありました。
 当時の鉱山局長の大島高任がつくった高任立坑もありました。
 北沢付近には大きな炭鉱街が形成されていたことがわかります。

 この間、こうした遺構や遺産が再評価されるなか、数多くの遺構が国指定の重要文化財となっていました。当時大学院生の私達が、指導の村松貞次郎先生と調査をしたのがすでに30年も前のこと。懐かしい踏査の際の思い出が数多くあります。

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 宿根木地区について
  このたびの佐渡の調査では南岸の小木港からさらに西へ向かった宿根木集落を訪ねることしました。
 この集落はある意味で佐渡のルーツと言えるようなところ。そこで、30数年も前、東京大学工学部建築史研究室の調査グループが集落調査を実施したことがあります。
 私の記憶では、当時イタリア留学から戻られた陣内秀信先生が、集落形成過程の分析手法とも言える「ティポロジア」を援用されたことで知られています。私は東京藝術大学大学院に所属しており、非常勤講師の陣内先生に素晴らしい分析解釈を示してもらったのです。宿根木は海に面した小さな集落に過ぎないのですが、それをひとつの都市と見立て、空間が成立し発展して行く過程をいきいきと追いかけていくことができるこの手法に感動を覚えのです。

 ここは人口数百人規模の小さな集落です。東は海に面した港があり、南に山があります。小さいけれど高密度の人口が密集した港町でした。
 海側に公民館や観光センターがあり、東側になるにつれて河岸段丘になっています。山付きから海側へかけて集落が200年程かけて形成されていきました。
 こうした都市形成過程が明らかにされ、その中の建物の履歴や由来来歴が明らかにされていったことから、その後、宿根木は重要歴史的建造物群保存地区に指定されることとなったのです。
 宿根木の代表的な産業とも言える船大工がつくった特徴を示す家もあります。17世紀頃には、瀬戸内からの定期的な交易によって徳山あたりの素晴らしい御影石を搬入していました。小橋に用いられた石に刻まれた年号や白山神社の鳥居に彫られた年号からわかります。
 
 背後の坂に残る中学校校舎を用いて小木歴史民俗博物館が設置されていますが、そこにはじつに多種多様な生活用具を見ることができます。石材の加工技術や竹籠、桶の生産等を見て行くと、ここが全国各地から移住した人や滞在した人により多彩な生活文化混交と地だったことがわかります。
 

 現在、宿根木には船大工は存在しないため船問屋達が用いた船を再現しようと言う際にも気仙沼から大船工に来てもらったとのことです。


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 佐渡金山の佐渡全体への影響
 小木港は北前船の航路となっており、全国各地からの文化や商品がもたらされたようです。同時に産出された金銀の輸出港でもありました。
 佐渡は当時、米を全く作っておらず、この島の人口の食糧を支えるものは、金銀の市場価格、お金との交換で購入しました。相川には全国各地から多くの労働者や商人が集まり、人口10万人の大都市に発展しました。小さな村々が人口増加に伴い、農地開拓、砂丘、畑、河岸段丘の棚田が整備されるようになります。相川には大量の食糧が供給されました。小木では、たらい舟の桶職人の技術が漁業にも貢献しています。
 歴史上、佐渡にもたらされた鉱山技術や山留技術は、その後も佐渡全体の石垣や建築へ影響し、産業での利益と人材の滞在・定住により、芸能など多様な文化の発展と蓄積をもたらしていったのです。
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藤原先生のお話を受けて討論・質疑応答を行いました。
 

Q。世界文化遺産登録へ向けた佐渡の市民のみなさんの準備活動はどうなっていますか。また金銀山は岩盤の状態が良かったからか、炭鉱と比べて事故等が少なく、かつての産業遺産としての保存状態がよいと思いますが、いかがでしょうか。

A
(藤原)ご質問ありがとうございます。私が見たところ、これまで佐渡市や新潟県のみなさんが懸命に活動を展開されておられます。現地情報を見て行くと一年間を通して佐渡の内外で熱心な活動が行われています。
 この間、開催された世界遺産フォーラムは数多く、大きな成果を生み出しているようです。その中には地元の小学生の郷土学習を通した発表などもありました。
 当時の文化庁長官近藤誠一氏が講師として登壇された時には、小学生による「佐渡は世界遺産になれるか?」という発表があったとのこと。趣向を凝らした発表は会場を沸かせたといいます。あいにくと
佐渡には高校までしか無く少子高齢化の影響を真っ向から受けざるを得ません。鉱山関連産業を閉山で失った後、現在の基幹産業は脆弱で雇用の場も限られているようです。そこで新規の移住者や定住者の開拓に努力されているようです。こうした日々の努力や研鑽が重要ではないでしょうか。現地では、三菱は相川地区の遺された産業遺産を観光資源として活用する努力を重ねていて、今回私が体験したように若いボランティアが登場しており、そのほかにも多彩な解説者や説明のインタープリターの育成も行われている模様です。世界文化遺産登録を目指すことが、そのまま佐渡の誇りを磨き直すことになっていくことがたいせつだと考えています。

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Q。目に見える技術の継承や価値につながるものも大事ですが、目に見えにくい効果としての教育という背景が重要だと思います。佐渡を見た場合、それはどう考えたらよいでしょうか?

A(藤原)世界文化遺産はあくまで遺産の「顕著な普遍的価値」を物証で立証せよというものです。しかしながら、おっしゃったことは非常に重要です。
今回驚いたことがひとつ。移動中に相川の高台で小さな記念公園を見つけました。鈍翁益田孝(ますだたかし)の生地記念の公園でした。
三井財閥の大番頭(社長)として明治の産業界に大きな影響を与え、老後は隠居して大茶人としても活躍した人です。このような人物が天領・佐渡から輩出していたことを知りました。他にも必ず優秀な人材が集まっていたのではないか、と考えられます。
昭和戦前期の建築界で活躍した東大教授の岸田日出刀先生は丹下健三を輩出した大先生だが、佐渡の相川踊りがとても好きで、研究室の集まりでは必ず相川踊りを踊っていたらしい。その辺も関係有るかもしれませんね(笑)。


Q
。柏崎や直江津などの対岸との関係はどうですか。

A(藤原)北前船の往来を軸に濃密な関係があったと考えられます。こうした関係を裏付ける史料として、数奥の絵図や文書が物証として存在するようです。
(馨さん)世
阿弥や良寛さんの縁も含め、流刑の地だったにも関わらず、雅やかな文化が残っているなという印象をもちました。佐渡おけさや相川音頭も含め、若者も踊れる地元の舞があることにも驚きました。しかし高校までしかないので、いったん佐渡を離れた若者たちはなかなか戻って来ないらしく、厳しい少子高齢化の現実を乗りこえるためにも、この世界文化遺産へのチャレンジを期になんとか元気な島に戻していきたいという地元の方々の気持ちをひしひしと感じました。


Q 相川は武家社会の街、両津・間野・八幡など低地の場所は京的、小木などは商人文化の街で佐渡は3群に分かれているということをききましたが。

A 両津・間野・八幡など低地の場所は船大工で賑わい船箪笥で身入りがよかったようです。金銀山で儲けた莫大な財を得た相川などの地区、交易で儲けた小木地区、それらに対して間野・八幡地区は独特の船箪笥や懸硯といった丁寧な木工芸や指物等を行っていたとのこと。佐渡には、こうした地区の地域の違いが存在するようです。


                                      岩  井 


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