藤原恵洋さま
還暦を恙無く迎えられ、その祝賀の宴に参列することがかないませんが、遠く東京よりお祝い申し上げます。
初めてお会いしたのは1984年でした。
私たちが地域雑誌「谷中・根津・千駄木」を創刊した頃、谷中で藤原さんの東京芸大での修士論文「旧藍染川下流域における生活環境の形成過程考察」(昭和56年)でした。地元に残された論文を手がかりに,谷中のお寺の間の路地に住んでいた藤原さんを探し当てました。そのときは奥様の馨さんと,よちよち歩きの旅人くんがいましたね。あの小さな木造の家に大きな藤原さんがいるとまるでガリバー旅行記のようでした。そのとき東京大学の博士課程にいて、またいまはジョージタウン大学教授となられたジョルダン・サンドさんもいて、よくみんなで町を歩き,人の話を聞きましたね。
馨さんは旅人くんを連れて,朝早くパン屋さんのアルバイトをするかたわら、谷根千のスタッフをしてくださり、一ヶ月に一度の「谷根千生活を記録する会」は藤原さん夫妻を中心に行なわれたのでした。いくら若くて、お金がないわたしたちだといってもずっとただ働きをしていただき,心より感謝,そして申し訳ない思い出いっぱいです。
藤原さんは「谷根千」5号にも「棲み家としての町へ」という論考や、日暮里の「都千家」に関する調査報告を書いてくださいました。都千家では小川三知の作ったステンドグラスを藤原さんは発見しましたね。あのころ、まだ今のように有名になっていない知る人ぞ知る谷中は私たちの夢の町、ボエームでした。貧しいけれど,意気に燃える私たちとそれを許す町の空間がありました。美術、建築、文学、歴史などに強い興味を持つ人々が集まっていました。本当にいい時代だと思っています。
藤原さんはやがて上海に関する講談社新書をだし、近代和風建築についての論考を書かれ、藤森照信さんたちと路上観察学会を立ち上げ、建築史家としてもたいへん多忙になって行かれました。越谷の立派な共同住宅に越し、千葉大,そして九州芸工大にポストを得られ、私たちとの行き来は少なくなりました。
海外にも多く調査に行かれ、ライデン大学でも研究され、それでもたまにつむじ風のように,谷根千事務所に現れ,最近の気になる研究や関心の流れについて語る恵洋さんは生き生きとしておられました。語り続けてまたつむじ風のように去る恵洋さんを私たちスタッフ3人はあっけにとられて見送りました。
長いときがたち、私はまた独身に戻り,作家となりました。
2010年、九州大学のプロジェクトの一環として菊池市にお招きいただき、帰りに天草などへの旅をして旧交をあたためました。またその一年後、3・11の翌日も、再度,菊池市によんでいただき、九州の皆さんの温かいお心遣いをいただきました。それからも藤原夫妻とはあちこち旅をしましたね。対馬、釜山、天草、柳川・・・そして2013年10月以降、私が「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」の共同代表として,ザハ・ハディッド案に反対するなかでも建築に関してはいつも藤原さんに貴重なアドバイスをいただいてきました。何度目かの天王山とも言える状況のため,東京を離れることができません。
友人としては、アートマネジメントや地域おこしのほうに傾いておられる藤原さんが,古巣の建築史のお仕事を集大成されること、またすばらしい絵を書かれるので、画家としてのお仕事も続けられ、わたしの本の装画もお願いしたいと思っております。
では、立派なご子息たちの成長もことほぎ、ますます夫婦仲もよろしく、健康で60代を過ごされることを祈念してお祝いの言葉にかえさせていただきます。
2015年7月5日 森まゆみ