2015年1月20日(火)夜、九州産業技術史研究会のスペシャリストシリーズ第2弾に、特別講師として元トヨタ自動車デザイナーの諸星和夫氏が登壇されました。
氏のユニークかつ豊かなデザイナー人生哲学を通して語っていただいたのは「自動車という商品」もしくはエクスペリメンタルデザインを超えて世界を見つめるとき、というようないたって普遍的なデザイン観とも言える視点。
氏は、トヨタデザイナーとして、国民的大衆車とも言えるカローラの創出から、その後の新たな家族観に影響を与えた大型空間のエスティマや、新たなアネルギー時代のハイブリッド車プリウスといった、時代時代のシーズとニーズを反映させた車づくりを長らく展開してこられました。
よもや世界で一番つくられた車がカローラ、と言われる昨今、それ以降のヒット商品とも言えるエスティマやプリウスを加えていけば、世界で最もたくさんの車をデザインした方なのかもしれません。
こうした社会のシーズやニーズを果敢に感じ取る人間力とも言える哲学的下地には、旧九州芸術工科大学初代学長をつとめられた小池新二先生が千葉大学工学部工業意匠学科教授だった頃に仰がれた薫陶の脈流が通奏低音のように流れている、と言われます。
この日は多彩な受講者が集う中、九州産業技術史研究会の新たな展開を記念するかたちでの特別講演を通して、自動車の魅力や不可思議さを訴えていかれました。
1963年、東京オリンピックの前年にトヨタ自動車に入社された諸星さん。
実は入社のきっかけになったのがパブリカスポーツだったそうです。1962年、第9回全日本自動車ショーに出展されたパブリカスポーツを見て、「こんな格好良い車を出している会社、是非入りたい」と。しかし入社された頃には存在しなかったとのこと。それはエクスペリメント、つまり実験車だから2台しか作らなかったからだそうです。
パブリカスポーツを構想したのは元航空機設計士の長谷川龍雄でした。米軍による爆撃が激化するなか、昭和20年7月末に長谷川はキ94という高高度戦闘機を設計し試作機を完成させますが、試飛行を迎えることなく敗戦を迎えました。
終戦後、飛行機を作られなくなった多くの技術者は自動車業界へ移り、長谷川も1946年にトヨタ自動車へ入社しますが、当時は「設計」ではなく「修理」という悲惨な有り様だったそうです。そしてそれを払しょくするため、製品としてのスポーツカー”パブリカ”の構想が進んでいったそうです。
スポーツカーとして新たな自動車を造る、しかしエンジンは小型車用しか使えないという条件から、軽量化と小型化が焦点となっていました。そして紆余曲折を経て1962年、第9回全日本自動車ショーにパブリカスポーツが出展されました。同展にはホンダのS360も出展されていました。これらはどちらもエクスペリメンタルカー、つまり実験車でしたが、強い反響もあり、レーシングカー(製品化)を経て商品化することになりました。
この写真は国民車構想に則って作られたカローラです。この製作に諸星さんは関わっておられました。
車はその乗る人を他の何よりも雄弁に物語ります。
写真はイギリスのブロックバンクによる挿絵です。幌を出さないオープンカーで疾走するイギリス男は女性を黙らせるになるほどストイックだというもので、見る人が見れば「あるある」と頷ける様子や心情を巧く描いています。
こうした乗る人のイメージを体現する、あるいは人を表現することも自動車の重要な役割の一つであり、そういったものを問うていくことが「売れる=価値を認められる」ことにつながるのだということがよく分かる説明を頂きました。
そういった意味において、ローバー社のミニは非常に重要です。アレック・イシゴニスは上流階級のものだった自動車を大衆者向きに、しかしパワーもスピードも妥協しない新たな自動車像を切り開き、それまであった自動車のクラス(格)感を覆したからだそうです。
氏のユニークかつ豊かなデザイナー人生哲学を通して語っていただいたのは「自動車という商品」もしくはエクスペリメンタルデザインを超えて世界を見つめるとき、というようないたって普遍的なデザイン観とも言える視点。
氏は、トヨタデザイナーとして、国民的大衆車とも言えるカローラの創出から、その後の新たな家族観に影響を与えた大型空間のエスティマや、新たなアネルギー時代のハイブリッド車プリウスといった、時代時代のシーズとニーズを反映させた車づくりを長らく展開してこられました。
よもや世界で一番つくられた車がカローラ、と言われる昨今、それ以降のヒット商品とも言えるエスティマやプリウスを加えていけば、世界で最もたくさんの車をデザインした方なのかもしれません。
こうした社会のシーズやニーズを果敢に感じ取る人間力とも言える哲学的下地には、旧九州芸術工科大学初代学長をつとめられた小池新二先生が千葉大学工学部工業意匠学科教授だった頃に仰がれた薫陶の脈流が通奏低音のように流れている、と言われます。
この日は多彩な受講者が集う中、九州産業技術史研究会の新たな展開を記念するかたちでの特別講演を通して、自動車の魅力や不可思議さを訴えていかれました。
発表構成
DVD映像「復元パブリカスポーツ(1962年)」
1- デザイン
1-1.
機能とかたち
1-2.
エクスペリメントとプロダクト
1-3.
製品(プロダクト)と商品(プロダクツ)
1-4.
量産し、量販するということ
“かたちの重要さ”
2- 自動車という商品
2-1.
売れるということ
2-1.1.
ベストセラーかロングセラーか
2-1.2.
ブランドの構築
2-2.
イメージ商品
2-2.1.
映画に登場する車
2-3.
人の性格を表現する
2-3.1.
クラス感(格)
2-3.2.
趣味(生き方)
2-4.
時代を表現する
2-4.1.
流行
2-5.
マン・マシーンの一期一会
2-5.1.
単なる雑貨か
3- 時代を超えるもの
3-1.
魅力…人の心を打つものとは
“人の努力(汗)と美しさ〜スポーツのように〜”
1963年、東京オリンピックの前年にトヨタ自動車に入社された諸星さん。
実は入社のきっかけになったのがパブリカスポーツだったそうです。1962年、第9回全日本自動車ショーに出展されたパブリカスポーツを見て、「こんな格好良い車を出している会社、是非入りたい」と。しかし入社された頃には存在しなかったとのこと。それはエクスペリメント、つまり実験車だから2台しか作らなかったからだそうです。
パブリカスポーツを構想したのは元航空機設計士の長谷川龍雄でした。米軍による爆撃が激化するなか、昭和20年7月末に長谷川はキ94という高高度戦闘機を設計し試作機を完成させますが、試飛行を迎えることなく敗戦を迎えました。
終戦後、飛行機を作られなくなった多くの技術者は自動車業界へ移り、長谷川も1946年にトヨタ自動車へ入社しますが、当時は「設計」ではなく「修理」という悲惨な有り様だったそうです。そしてそれを払しょくするため、製品としてのスポーツカー”パブリカ”の構想が進んでいったそうです。
スポーツカーとして新たな自動車を造る、しかしエンジンは小型車用しか使えないという条件から、軽量化と小型化が焦点となっていました。そして紆余曲折を経て1962年、第9回全日本自動車ショーにパブリカスポーツが出展されました。同展にはホンダのS360も出展されていました。これらはどちらもエクスペリメンタルカー、つまり実験車でしたが、強い反響もあり、レーシングカー(製品化)を経て商品化することになりました。
この写真は国民車構想に則って作られたカローラです。この製作に諸星さんは関わっておられました。
車はその乗る人を他の何よりも雄弁に物語ります。
写真はイギリスのブロックバンクによる挿絵です。幌を出さないオープンカーで疾走するイギリス男は女性を黙らせるになるほどストイックだというもので、見る人が見れば「あるある」と頷ける様子や心情を巧く描いています。
こうした乗る人のイメージを体現する、あるいは人を表現することも自動車の重要な役割の一つであり、そういったものを問うていくことが「売れる=価値を認められる」ことにつながるのだということがよく分かる説明を頂きました。
そういった意味において、ローバー社のミニは非常に重要です。アレック・イシゴニスは上流階級のものだった自動車を大衆者向きに、しかしパワーもスピードも妥協しない新たな自動車像を切り開き、それまであった自動車のクラス(格)感を覆したからだそうです。