菊池域学連携事業文化資源活用コースが展開中の第4回まちをつくろう(繕う=創ろう)ワークショップに参加してきました。
菊池市にある国指定登録有形文化財・松倉邸の北側の住居部分を修理・再生し、今後、複数の大学がここをラボとして活用できるようその場所をつくろうというものです。
今回はその4回目、ワークショップとしては最終回でした。
ワークショップは総務省補助事業として展開中の菊池「域学連携」地域づくり活動の中枢に位置するものです。
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ではこの域学連携事業をざくりと岩井流にご案内しておきましょう。
以下は総務省のHPからの引用です。
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/ikigakurenkei.html
「域学連携」地域づくり活動とは、大学生と大学教員が地域の現場に入り、地域の住民やNPO等とともに、地域の課題解決又は地域づくりに継続的に取り組み、地域の活性化及び地域の人材育成に資する活動を言います。
(活動事例)
●地域資源発掘、地域振興プランづくり、地域マップづくり、地域の教科書づくり
●地域課題解決に向けた実態調査
●地域ブランドづくり、地域商品開発、プロモーション
●商店街活性化策検討、アンテナショップ開設
●観光ガイド実践、海外観光客向けガイドブックづくり
●環境保全活動、まちなかアート実践、子ども地域塾運営、高齢者健康教室運営 など
・意義と課題認識
過疎化や高齢化をはじめとして様々な課題を抱えている地域に若い人材が入り、住民とともに地域の課題解決や地域おこし活動を実施することは、都会の若者に地域への理解を促し、地域で活躍する人材として育成することにつながるとともに、地域に気づきを促し、地域住民をはじめとする人材育成に資するものであります。
こうした取組は、地域(地方自治体)及び大学(大学生・教員)双方にメリットがあり、さらなる充実が望まれていることから、連携事例の収集・整理、そのノウハウの確立、継続的に実施できる仕組み作りが求められているところです。
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さて以上の域学連携の中心事業にも位置づけられる菊池ラボ創出は、大正末期の古民家を活かそうというものです。2014年2月8日(土)のワークショップでは漆喰塗をしました。
現場に集った「菊池たてもの応援団」の精鋭メンバーたち。建築士、大工棟梁、左官、瓦屋、板金屋さんと多士済々。メンバーが集えば怖いもの無し!!
その一番手前のハンチング姿の伊達男さんが、今回の漆喰塗を指導する日本一(全国技能オリンピック)
の左官丹波秀朗さん。
そして東日本大震災被災を機に菊池へ移住された方も含まれる参加者のみなさん。こちらもじつに多士済々なメンバーとなっています↓
左官で日本一になった丹波秀朗さん。参加者の師匠です。
↓これがこれから塗る漆喰です。漆喰は、消石灰、すさ、海藻のり、水でできており、これを3日間寝かせたとのことです。丹波さんの「この製法は昔も今も変わらない」というお話になんとなくほっとする感じがします。
壁の構造は、えつり→粗壁→樹脂系補強材→漆喰2回仕上げということです。
漆喰。これを塗ります。
↑ 熊本県美里町地域おこし協力隊の五瀬信子さん。
↑山都町地域おこし協力隊の松本麻子さん。
五瀬さん、松本さん、そして私は、床の間の漆喰塗をしました。
床の間はそのお家の顔ではないでしょうか。一番美しくする必要があるかと思いますが、私たちは素人なので、大丈夫かしら、上手く出来るかしらとおっかなびっくり…。左官の師匠によりますと、鏝はたてないで壁に材料を置きます。
↓ ふ印ラボ藤原研究室ではおなじみの西岡史郎商店店主で菊池御松囃子御能保存会会長、肥後細川藩御用絵師「矢野派」の流れをくむ西岡家末裔の西岡史郎さんも漆喰塗に参加していらっしゃいました。
菊池市への移住組・IT関係の仕事をしている塚崎さんもこの日は左官修行の様相。
↓五瀬さん、慣れてきましたね。動きがダイナミックになりました。漆喰塗たのしいですよね。
私も2度しましたが、材料が上手く鏝にのらず、壁にのせてもムラがあり、どうにもできないので「エイッ」とか「やーっつ」とか言いながら力任せに壁に向かって作業をしておりましたところ、師匠から、「そういう姿勢で壁に向かってほしくないな~」という注意が入りました。
-ハッと気が付きました。全くその通りでございます。できないからといってヤケになっては更にいい仕事になるはずがありません。心を入れ替え、じっと丁寧にしかしダイナミックに塗りました。
↓でも、床の間は家の顔なので最後はやはりプロの職人さんに仕上げていただかないと不安です。
最後はこのようになりました。
よく見ると床柱がない。スパッと切ったようです。
床の間の反対側の壁はこんな感じで作業が行われておりました。
この間に建築探偵として知られるふ印ラボのボス藤原惠洋先生は、あの大きな体躯でさささと忍者のように押し入れ天井から屋根裏に入り込み建物の由来来歴調査を敢行しました。
意外なことに、構造体は洋小屋造り(洋小屋とは、部材を三角形状の骨組(トラス)に組み立て、外力に対して各部材が一体となって働く構造で、曲げが生じにくいので、比較的大きな空間や大きな梁間の建物に向いている)です!
この松倉邸南側は見過ごされがちでしたが、漆喰塗りをしている部屋を見上げると竿縁天井(天井板を竿と称する部材で押さえて天井を張るやり方)はヒノキの材料を用いており、南面した座敷二間にはしっかりと長押がまわっています。これは床の間を有した書院造を規範として格式が高い接客空間を表しているとのこと。
さて天井裏からふ印ボスが戻ってきました。ホコリだらけで手足が真っ黒真っ白に汚れた状態で報告が始まりました。
洋小屋の陸梁、桁材、母屋材はマツ材、地松を手斧や鉞ではつったものと機材製材痕が見えたとのこと。そしてなにより重大な発見は上棟式の際の墨書を棟木に発見されたとのこと。そのおかげで上棟履歴がが判明しました。
上棟式は「大正十四年九月廿三日、戸主松倉万次郎 大工棟梁高松亀太郎」とのこと。
なんと今年で築89年ということがわかりました。
すでに国登録有形文化財に登録された昭和7年竣工の松倉邸北側を建てた大工棟梁は中島軍次郎、南側を建てた大工棟梁も判明して、大正から昭和にかけての当時の隈府町の建築文化が髣髴とされます。
さらに漆喰ワークショップに参加されていた西岡史郎さんが「高松亀太郎」の名前には記憶がある、とすぐにご自宅から「菊池松囃子保存会」の記念冊子に掲載された高松亀太郎さんの名前と写真を紹介してくれました。この高松さんは、昭和初期には松囃子御能保存会に所属しておられ、狂言方をつとめられていた、とのことです。わずか1時間ほどで建物の由来来歴が判然として行く、というのも凄いことです。調査にはいろいろな得意技を持った陣容が重要だと聞いていましたが、ほんとうにその体験をまのあたりにすることができる瞬間です。
高松亀太郎さんは御所通りに住んでいた方であろうということです。
ふ印ボス藤原先生はほこりを払い落とした後、すぐにこの松倉邸のオーナー隅倉テルさんのところへ 報告へ行かれていました。
きっとまた新しい歴史発掘がここから始まることと思われます。ご苦労様でした!
上棟式は「大正十四年九月廿三日、戸主松倉万次郎 大工棟梁高松亀太郎」とのこと。
なんと今年で築89年ということがわかりました。
すでに国登録有形文化財に登録された昭和7年竣工の松倉邸北側を建てた大工棟梁は中島軍次郎、南側を建てた大工棟梁も判明して、大正から昭和にかけての当時の隈府町の建築文化が髣髴とされます。
さらに漆喰ワークショップに参加されていた西岡史郎さんが「高松亀太郎」の名前には記憶がある、とすぐにご自宅から「菊池松囃子保存会」の記念冊子に掲載された高松亀太郎さんの名前と写真を紹介してくれました。この高松さんは、昭和初期には松囃子御能保存会に所属しておられ、狂言方をつとめられていた、とのことです。わずか1時間ほどで建物の由来来歴が判然として行く、というのも凄いことです。調査にはいろいろな得意技を持った陣容が重要だと聞いていましたが、ほんとうにその体験をまのあたりにすることができる瞬間です。
高松亀太郎さんは御所通りに住んでいた方であろうということです。
ふ印ボス藤原先生はほこりを払い落とした後、すぐにこの松倉邸のオーナー隅倉テルさんのところへ 報告へ行かれていました。
きっとまた新しい歴史発掘がここから始まることと思われます。ご苦労様でした!