建築史家でまちづくりオルガナイザーこと、九州大学藤原惠洋(ふじはらけいよう)名誉教授の活動と、通称ふ印ラボ(ここで「ふ」の文字は意味深長なのでちょっと解説を。ひらがなの「ふ」は「不」の草体。カタカナの「フ」は「不」の初画を指しています。そのまま解釈すれば「つたない」かもしれませぬ。しかし一歩踏み込んで「不二」とも捉え「二つとないもの」を目指そう、と呼びかけています。ゆえに理想に向けて邁進する意識や志を表わすマークなのです。泰然・悠然・自然・真摯・真面目・愚直を生きる九州大学大学院芸術工学研究院芸術文化環境論藤原惠洋研究室というわけ、です!)の活動の様子をブログを介して多くの同人・お仲間・みなさまにお伝えしています。 コミュニケーションや対話のきっかけとなるようなコメントもお待ちしております!
●ハンナ・アーレント(マルガレーテ・フォン・トロッタ)

Hannah Arendt/2012/2/Margaret von Trotta       ★★★★

◆バルバラ・スコヴァが演じるハンナ・アーレントは、写真やビデオで見るハンナ・アーレントとは雰囲気がちがうが、「思考する姿を見せることができる女優が必要だった」というフォン・トロッタの発言を読むと、その選択はまちがっていなかったと思う。「うまい」役者が、観念的な言葉や言い回しをいくら練習してしゃべっても、それが自分の思考過程からでてきたものでないことがすぐばれる。男優なら、役所広司がいい例だ。

◆いまの映画技術のせいもあるが、映像的に再現された法廷でのアイヒマンは、最初からアンドロイド的である。実際に彼は、組織の歯車でしかなかったと自分の責任を回避する自己弁護に終始するが、アーレントは、その姿を見て、それを信じ込んでしまう。彼の「凡庸さ」(banality)が「悪」だという彼女の認識は、ユダヤ人虐殺が、ユダヤ人に対する憎悪や殺意からうまれたものではなく、官僚主義的なプロセスのなかで作られた決まりとそれを無批判・無思考に受け入れる官僚の「凡庸さ」にもとづくというのである。

◆ここには、彼女の「終生の師」であるマルチン・ハイデッガーが『存在と時間』の第4章で展開した「ダス・マン」(das Man)――ドイツ語でmanは、非人称誰かであり、日本語の「世間」のような機能を果たす――の応用といった感じがする。ハイデッガーは、自己自身である本来的な自己存在に対し、自己を忘れているダス・マンを区別する。ここの部分を心理主義的な意識として解釈してはまずいのだが、実存主義ブームのなかではやった俗流ハイデッガー論では、これは、「思考なきわれ」であり、組織の決まりや慣習に無批判に従っている人間を指す。アーレントは、こういう解釈を便宜的に応用することによって、アイヒマンの「悪」を「凡庸」と概念化したのだ。

◆アーレントは、亡命したアメリカに根付くことに必死だった。それは、亡命者にとってはあたりまえのことである。彼女が、『ザ・ニューヨーカー』の特派員としてイェルサレムに行ったのは、彼女が雑誌社にみずから電話してアプライしたからであって、先方が彼女を抜擢したわけではなかった。彼女は、学生時代から頑張り屋で、ハイデッガーは、そういう彼女に惚れた。教師というものは、すいう学生には弱い。アーレントは、最終的に大論文を書くことになるが、ジャーナリスティックな文章を書くことに彼女はそう慣れてはいなかったはずだ。だから、映画に見られるような、シメキリの後退が生じたのである。

◆書き上げた文章が、『ザ・ニューヨーカー』に分載されたとき、ユダヤ人サイドから激しい批判を受ける。彼女は、アイヒマンを弁護したのではなく、ナチズムという組織のなかの人間の機能を解釈し、彼の「悪」が従来の善悪概念を越えており、その範疇で測ることができないということを主張したのであった。それによって、近代以後の社会の悪を論じる方向づけをする意味もあった。だから、彼女は、友人でハイデッガーの弟子同士であったハンス・ヨナス(ウルリッヒ・ノエテン)が彼女のアイヒマン解釈を認めないのはショックだった。ちなみに、ヨナスは、ハイデッガーの弟子ではあったが、彼が1933年にナチに入党したとき、彼と決別した。似たように、ヨナスは、アーレントのアイヒマン論に対し、映画のなかでは、「きみは、裁判を哲学論文にしてしまう」と批判することになっている。

◆ただし、アーレントとヨナスとの関係は、映画で見るほど単純ではなく、彼は、『ハンス・ヨナス「回想記」』(盛永審一郎ほか訳、東信堂)のなかで、この間の屈折を詳細に書いている(第10章「ニューヨークにおける交友と出会い」)。またハイデッガーとの「確執」に関しても、「ハイデッガーとの決別」という一章をもうけて、回顧し、結局は彼を排除してはいない。

◆映画内的に見ると、アーレントは、イエルサレムの法廷でアイヒマンを見たとき、その独特な存在感に畏敬されたように見える。それは、「偉人」のアウラ(オーラ)に翻弄されたのではなくて、いわば異星人(「ガラスケースのなかの幽霊」と映画のなかでは言われる)のいままでにない新しい存在性を見たような印象である。たとえば、ふだん「普通」の人間にばかり会っているひとが、フランツ・カフカに会ったとしたら、どうだろう。なにか、自分のそれまでの感覚が全然通用しないような感じ――不安をもたらすが、同時に非常に蠱惑的な感じである。

◆映画は、アイヒマンが「映像人間」でもありうる存在であることをうまく使っている。実際に、裁判会場のキャパシティの関係から現場と同時にテレビ中継の映像が記者たちに提供されたのだろう。しかし、ハンナが、そのスペースでテレビモニターを通じてアイヒマンを(映像人間として)見、彼についての思考をくりひろげたというのは、重要である。彼女は、無理をして裁判会場には行かなかった。そもそもアイヒマンは、ガラスケースのなかに隔離されており、その会場でも「映像化」されていた。だから、アイヒマンをモニタースクリーンで見るのは、その〝実像〟にふさわしいのである。そして、また、ハンナ・アーレントのアイヒマン論は、ある意味で映像作品についての論考であり、近代的な意味での「生身の実像」は存在しなかったのである。

◆映画内的な想像をさらに引き延ばせば、その感覚は、彼女に若きハイデッガーを思い出させたかもしれない。

   

映画に見るハイデッガーは、クラウス・ポールという俳優による陳腐な演技によって、そういう想像を呼び起こさないが、実際の若いハイデッガーは、カフカのような目をした繊細な表情の青年であり、彼がハンナのまえで講義をした時代にはまだその面影を残していたはずである。

◆その際、ハイデッガーは、「本来的」なつまり自己思惟する存在であり、アイヒマンは「非本来的」な思考しない存在を代表する。「なんでも哲学にしてしまう」ハンナ・アーレントにとって脱近代の他者は、この2様態に分類される。

◆この映画では、フォン・トロッタらしく、ヨーロッパの戦前の知識人の雰囲気を想い起させるシーンがいくつも出てくる。彼らは、古典の言葉をよく暗記していて、折に触れてたくみに引用する。日本人でも、漢文を同じように自在に引用できる世代は、50年まえにはよくいた。

◆イエルサレムを訪ねたアーレントが会う、旧友のクルト・ブルーメンフェルト(ミヒャエル・デーゲン)との会話である。ちなみに、ブルーメンフェルトは筋金入りの(という意味は、単なる心情的な――しばした狂信的にすぎないだけのイメージのとは異なる)シオニストであり、彼女は、戦中、彼の影響でシオニズム運動に加わっていた。ふたりが、野外のカフェで話すシーンで、彼女が、アイヒマンは、法廷で、「いまのわたしは、ジリジリと焼かれる肉の気分です」("Ich habe das Gefuehl dass ich hier so lange gebraten werden soll, bis das Rumpsteak eben gar ist." )と言ったとをクルト・ブルーメンフェルトに話し、「意図が見え見えなのよ」と言うと、クルトが、ゲーテを引用する:
So fuehlt man Absicht, und man ist verstimmt.
これは、『タッソー』(Tasso, 969, 第2幕第1場)におけるタッソーのせりふである。
するとアーレントがすかさず(訳では)「〝好きなようにやれ〟これもゲーテよ」と言い、さらにクルトが、「ふさわしいことをだ」と受け、アーレントが感心する。
そのとき隣にいた客が、「何がふさわしいかは、高貴な女性に尋ねよ」と受け継ぐ。彼の父は「ベルリンで仕立て屋Schneiderをやっていて」いつも『ファウスト』「特にメフィストの」引用を好んだという話が続くので、この引用は『ファウスト』からかもしてない。
「メフィストの」という言葉をきいて、クルトは、「血は特別のジュース」(Blut is ein ganz besonderer Saft」という『ファウスト』(I、書斎の場、1740)の言葉を引用する。そして、(それが)アイヒマンだと。
だが、これに対して、アーレントは、「アイヒマンはメフィストではない」とクルトの意見をくつがえす。クルトの顔に失望が浮かぶ。
この間、こういうやり取りが全然キザに見えないところが、フォン・トロッタのヨーロッパ的奥行であり、彼女の素養というものである。

◆本や映像を通じて想像する人物とあまり違和感がないのは、若い時代のアーレント(フリーデリケ・ベヒト)、夫のハインリッヒ・ブリュッヒャー(アクセル・ミルベルク)である。親友のメアリー・マッカーシーをジャネット・マクティアに演じさせたのは、いい選択だった。鼻っ柱が強く、ひと癖もふた癖もあるマッカーシーとアーレントとの関係は、『アーレント=マッカーシー往復書簡』(佐藤佐智子訳、法政大学出版局)で読むことができる。

◆映画のなかでアーレントのニューヨークの書斎の机のうえには、ハイデッガーのとみなせる肖像写真が飾ってある。夫のブリュッヒャーは、「ハイデッガーはぼくの恋敵」だと、アーレントの彼への敬愛を容認している。ハイデッガーとアーレントとの関係については、エルジビェータ・エティンガーの『アーレントとハイデッガー』(大島かおり訳、みすず書房)が面白い。この本は、1995年の出され、スキャンダラスな話題を提供したが、本自体はしっかりと書かれている。当時は未発表だったふたりの往復書簡(いまでは大島かおり・木田元訳『アーレント=ハイデッガー往復書簡』、みすず書房で読める)を、映画のなかでヴィクトリア・トラウトマンスドルフが演じているシャルロッテ・ベラート(秘書からやがてアーレントの遺稿管理者になる)を通じて閲読し、それを使ってハイデッガーとの関係を明らかにした。

◆映画に登場するハイデッガー(クラウス・ポール)は、若い女子大生のアーレントの膝に顔をうずめてめそめそしたり、ナチ時代の断絶後に再会したときにはすっかり老いて好々爺風であるなど、全く精細を欠くが、『アーレント=ハイデッガー往復書簡』を読むと、二人の「愛」はなかなかドラマティックであったことが想像できる。若い時代のハイデッガーの講義の魅力と凄さについては、いくつも証言がある。映画のなかで、New School for Social Researchesの講義を惚れ惚れとした目で聴く学生の表情が映るが、これは、若き日のハンナが講義するハイデッガーに向けていたであろうと同じ表情だろう。

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