2013.10.31(木)九州大学大学院芸術工学府「国際文化遺産保護法」の授業の一環として、長崎県の端島、通称“軍艦島”の特別調査が開催されましたので、この機会をのがしてはいけないと考え、参加いてきました。(これまで何度か上陸してきましたが、そのような通常の観光ルートによるお気楽上陸ではありません。)
この数年、九州大学大学院芸術工学府後期には集中講義形式で筑波大学大学院教授稲葉信子先生による「国際文化遺産保護法」が開講されています。
ガイダンスを経た後は、昨年から動機付けを高めるためにも現地踏査を実施。
僕は去年の「宗像・沖ノ島の関連遺産群」の現地調査には行けなかったので残念無念。
今年はぜひにと参加することができました。
行けてよかったです。
これまでふ印ボスが継続して行っている公開講座等の調査を通して何度か軍艦島に上陸したことはあったのですが、それは一般向けに公開されている限定されたものです。徹底して安全面を配慮したコースを回る事しか出来なくて、やや期待はずれ、遠くから風化の進む産業遺産たる建物を眺めるのが精一杯でした。
今回、長崎市より特別の許可をいただき軍艦島の調査が許されることになりました。
今回は端島(軍艦島)の他にも三菱重工長崎造船所敷地内のハンマーヘッドクレーン、三菱史料館(旧木型工場)や旧第3号船渠等の遺産群を現地調査が許可されました。
またこの現地ツアーの同行者にはこの集中講義の稲葉先生やふ印ボスに加え、現在国内の世界遺産推薦に大きな影響を与えている「文化審議会世界文化遺産・無形文化遺産部会世界文化遺産特別委員会委員」の一員としてお仲間九州国際大学元学長の清水先生も集われました。
みんなで撮影した記念写真です。
遠くに長崎港や中ノ島まで見えます。
天候に恵まれた一日でした。
しかしながら、じつにいろいろなことを考えさせられた一日でもありました。
世界遺産とは何だろう。
廃墟にどうしてわくわくするのだろう。
これから世界遺産になっていたときに軍艦島はどうなっていくのだろうか。
軍艦島をこの状態で守る技術や知恵はどれくらいあるのだろうか。
そして、税金を用いて行う保護に対して、市民や国民は納得していくのだろうか。
やさしい風が吹いていたような気がします。
汗を流して上り着いたところ。
場所は最上階の端島神社境内跡地。
みんな、何かを獲得していたような気がします。
詳しいメンバー
岩井さんの記事 に載っていますのでどうぞ!!
特派員藤原旅人でした。
「70号棟」
地上7階建ての小中学校。
1階〜4階までが小学校。5階及び7階の一部が中学校。6階に図書室と
講堂、7階の一部に科学実験室や被服室などの特殊教室がある。4階にある教室では
当時の教育指導要綱などの資料が今も残存しており当時の生活を彷彿とさせていた。
端島病院(69号棟)(高島礦業所端島病院)
島民の命を守った社立の病院。今では手術室の跡を鮮明に見る事ができる。
独身寮(67号棟)
独身者の施設として建てられた67号棟。
建物の正面には「X(エックス階段)」と呼ばれる風変わりな外階段が設置されている。
コンクリートの手すりに囲まれておりまったく実用性はないが、独特のデザインを見てとることが
できる。
何かの祭りの祭器であろうか。ひっそりとコンクリーと窓枠の
横に立て掛けられていた。
昭和館(50号棟)
ここは昭和感という名の映画館であった。テレビが普及する以前は
島内一番人気の娯楽施設であった。台風や海の時化で食料や水の供給船が
ストップしても映画のフィルムだけは荷揚げされたというエピソードが残っている。
2階建ての観客席がある館内では映画上映だけではなく島内のレクリエーションや
歌謡ショーが行われていたという。現在では建物の大半を締める煉瓦部分が大破しており
煉瓦部分は辺り周辺に散在している。
長崎県長崎大浦警察署高島町端島派出所(21号棟)
1階には派出所があり、2人の駐在さんが常駐していたそう。
写真は今でも現存している頑丈な収監用の檻。
端島神社(1号棟)
島頂部に鎮座する島の守神「端島神社」。
閉山時に建っていたのは1937年の火災で焼失しておりそれまでの社殿を
建て替えたものであった。毎年4月には炭坑の祭りとして一般的な
「山神祭」が執り行われた。今では神殿だけが残り、海上からでも
見る事ができる。この周辺は島民のデートスポットとしても有名であり
そのエピソードは現在の軍艦島クルーズでも紹介されることが多い。
今回の軍艦島の現地調査を行い感じた事はこ
れまでの軍艦島のイメージが今回の現地調査を経てまったく変わってし
まったということである。
僕はこれまで5回程軍艦島の調査に参加をしてきました。
しかしながらこれまでの調査は規制された観光ルートから、
今も残る建造物を見る事しかできませんでした。
もちろん、その現存している建造物からも軍艦島の歴史的文脈や採掘場としての
歴史を感じとるこことができますが、今回の調査ではその視点が採掘場だけでは
なく小中学校や住居部分、また病院、警察、寺社等の生活空間まで見る事で軍艦島
に対する認識が変わりました。
藤原旅人拝
この数年、九州大学大学院芸術工学府後期には集中講義形式で筑波大学大学院教授稲葉信子先生による「国際文化遺産保護法」が開講されています。
ガイダンスを経た後は、昨年から動機付けを高めるためにも現地踏査を実施。
僕は去年の「宗像・沖ノ島の関連遺産群」の現地調査には行けなかったので残念無念。
今年はぜひにと参加することができました。
行けてよかったです。
これまでふ印ボスが継続して行っている公開講座等の調査を通して何度か軍艦島に上陸したことはあったのですが、それは一般向けに公開されている限定されたものです。徹底して安全面を配慮したコースを回る事しか出来なくて、やや期待はずれ、遠くから風化の進む産業遺産たる建物を眺めるのが精一杯でした。
今回、長崎市より特別の許可をいただき軍艦島の調査が許されることになりました。
今回は端島(軍艦島)の他にも三菱重工長崎造船所敷地内のハンマーヘッドクレーン、三菱史料館(旧木型工場)や旧第3号船渠等の遺産群を現地調査が許可されました。
またこの現地ツアーの同行者にはこの集中講義の稲葉先生やふ印ボスに加え、現在国内の世界遺産推薦に大きな影響を与えている「文化審議会世界文化遺産・無形文化遺産部会世界文化遺産特別委員会委員」の一員としてお仲間九州国際大学元学長の清水先生も集われました。
みんなで撮影した記念写真です。
遠くに長崎港や中ノ島まで見えます。
天候に恵まれた一日でした。
しかしながら、じつにいろいろなことを考えさせられた一日でもありました。
世界遺産とは何だろう。
廃墟にどうしてわくわくするのだろう。
これから世界遺産になっていたときに軍艦島はどうなっていくのだろうか。
軍艦島をこの状態で守る技術や知恵はどれくらいあるのだろうか。
そして、税金を用いて行う保護に対して、市民や国民は納得していくのだろうか。
やさしい風が吹いていたような気がします。
汗を流して上り着いたところ。
場所は最上階の端島神社境内跡地。
みんな、何かを獲得していたような気がします。
詳しいメンバー
岩井さんの記事 に載っていますのでどうぞ!!
特派員藤原旅人でした。
「70号棟」
地上7階建ての小中学校。
1階〜4階までが小学校。5階及び7階の一部が中学校。6階に図書室と
講堂、7階の一部に科学実験室や被服室などの特殊教室がある。4階にある教室では
当時の教育指導要綱などの資料が今も残存しており当時の生活を彷彿とさせていた。
端島病院(69号棟)(高島礦業所端島病院)
島民の命を守った社立の病院。今では手術室の跡を鮮明に見る事ができる。
独身寮(67号棟)
独身者の施設として建てられた67号棟。
建物の正面には「X(エックス階段)」と呼ばれる風変わりな外階段が設置されている。
コンクリートの手すりに囲まれておりまったく実用性はないが、独特のデザインを見てとることが
できる。
何かの祭りの祭器であろうか。ひっそりとコンクリーと窓枠の
横に立て掛けられていた。
昭和館(50号棟)
ここは昭和感という名の映画館であった。テレビが普及する以前は
島内一番人気の娯楽施設であった。台風や海の時化で食料や水の供給船が
ストップしても映画のフィルムだけは荷揚げされたというエピソードが残っている。
2階建ての観客席がある館内では映画上映だけではなく島内のレクリエーションや
歌謡ショーが行われていたという。現在では建物の大半を締める煉瓦部分が大破しており
煉瓦部分は辺り周辺に散在している。
長崎県長崎大浦警察署高島町端島派出所(21号棟)
1階には派出所があり、2人の駐在さんが常駐していたそう。
写真は今でも現存している頑丈な収監用の檻。
端島神社(1号棟)
島頂部に鎮座する島の守神「端島神社」。
閉山時に建っていたのは1937年の火災で焼失しておりそれまでの社殿を
建て替えたものであった。毎年4月には炭坑の祭りとして一般的な
「山神祭」が執り行われた。今では神殿だけが残り、海上からでも
見る事ができる。この周辺は島民のデートスポットとしても有名であり
そのエピソードは現在の軍艦島クルーズでも紹介されることが多い。
今回の軍艦島の現地調査を行い感じた事はこ
れまでの軍艦島のイメージが今回の現地調査を経てまったく変わってし
まったということである。
僕はこれまで5回程軍艦島の調査に参加をしてきました。
しかしながらこれまでの調査は規制された観光ルートから、
今も残る建造物を見る事しかできませんでした。
もちろん、その現存している建造物からも軍艦島の歴史的文脈や採掘場としての
歴史を感じとるこことができますが、今回の調査ではその視点が採掘場だけでは
なく小中学校や住居部分、また病院、警察、寺社等の生活空間まで見る事で軍艦島
に対する認識が変わりました。
藤原旅人拝