大分県の日田市に通うようになって早くも10数年がたつ。
一等最初は日田市を抜け山中へ向かい小鹿田焼の窯元探訪を皮切りに歩くようになった。
まず坂本茂木窯(当時)へ訪ね入り、若かりし坂本工氏と交流が始まった。もちろん一升瓶を片手に。
それから、期せずして日田産業工芸試験場が事務局をつとめる大分県技術・市場異業種交流プラザ日田のアドバイザーを仰せつかることとなった。けっしてものづくり専門家でもない。建築家として活躍してきたわけでもない。そんな輩に何を託してくれたのだろうか。忙しい本務の合間を縫って多士済々のメンバーが試験場の会議室に駆けつける。そこでテーマをいくつか設けて、研究班よろしく討議や実証実験の作業や実際の試作品づくりへ励む。うまく行けば新製品開発の端緒を生み出し、展示会や発表会へモノを持ち込み、多くの目にさらしながら評価や批判を受けて育てる。
嗚呼なんというこころざしの高い異業種交流であったことか。
現在もこのプラザ日田は営々と受け継がれていて、メンバーの多くも二世や後継者に代わってきている。そして私の長らくアドバイザーや助言者をつとめてきた。
ここで生まれたものは何だったろうか。
いくつかのユニークな新製品や試作品が生まれた。近いところではふんだんにお芋を濾してこしらえる「豆田ポテト」や「日田明かり」のネーミングの照明器具など。いくつもの難関を乗り越え、モノとして生まれた瞬間は携わったメンバーの表情に大きな喜びが見えた。
しかしこうしたモノを超えて、より以上に培ったものがある。
それは相互の信頼関係や扶助の気持ちであり、かねてより日田ではお馴染みの頼母子講(たのもしこう)のようなゆるやかな紐帯の創出であった。
そこに大学人である私は学生諸君の演習を持ち込むようになった。物づくりの試作現場然り、フリーマーケットの室内しつらえ用の布染め作業然り、地産地消の地元梨のちゃつねを活かしたカレーの販売用露店ショップ然り、学生とプラザ日田のメンバーが協力しあいながら生み出すコレボレーションのひとときこそが、新たな商品であったかもしれない。
異業種交流とは、人と人の交わりが生み出す邂逅力と見つけたり。
そこに隠された大きなパワーこそが、日田の時間・空間・仲間であった。これらの記録を以下にわずかばかり紹介しておきます。
一等最初は日田市を抜け山中へ向かい小鹿田焼の窯元探訪を皮切りに歩くようになった。
まず坂本茂木窯(当時)へ訪ね入り、若かりし坂本工氏と交流が始まった。もちろん一升瓶を片手に。
それから、期せずして日田産業工芸試験場が事務局をつとめる大分県技術・市場異業種交流プラザ日田のアドバイザーを仰せつかることとなった。けっしてものづくり専門家でもない。建築家として活躍してきたわけでもない。そんな輩に何を託してくれたのだろうか。忙しい本務の合間を縫って多士済々のメンバーが試験場の会議室に駆けつける。そこでテーマをいくつか設けて、研究班よろしく討議や実証実験の作業や実際の試作品づくりへ励む。うまく行けば新製品開発の端緒を生み出し、展示会や発表会へモノを持ち込み、多くの目にさらしながら評価や批判を受けて育てる。
嗚呼なんというこころざしの高い異業種交流であったことか。
現在もこのプラザ日田は営々と受け継がれていて、メンバーの多くも二世や後継者に代わってきている。そして私の長らくアドバイザーや助言者をつとめてきた。
ここで生まれたものは何だったろうか。
いくつかのユニークな新製品や試作品が生まれた。近いところではふんだんにお芋を濾してこしらえる「豆田ポテト」や「日田明かり」のネーミングの照明器具など。いくつもの難関を乗り越え、モノとして生まれた瞬間は携わったメンバーの表情に大きな喜びが見えた。
しかしこうしたモノを超えて、より以上に培ったものがある。
それは相互の信頼関係や扶助の気持ちであり、かねてより日田ではお馴染みの頼母子講(たのもしこう)のようなゆるやかな紐帯の創出であった。
そこに大学人である私は学生諸君の演習を持ち込むようになった。物づくりの試作現場然り、フリーマーケットの室内しつらえ用の布染め作業然り、地産地消の地元梨のちゃつねを活かしたカレーの販売用露店ショップ然り、学生とプラザ日田のメンバーが協力しあいながら生み出すコレボレーションのひとときこそが、新たな商品であったかもしれない。
異業種交流とは、人と人の交わりが生み出す邂逅力と見つけたり。
そこに隠された大きなパワーこそが、日田の時間・空間・仲間であった。これらの記録を以下にわずかばかり紹介しておきます。