藤原惠洋研究室「家宝」シリーズ02は、2003年に入手した木製小鳥箱。
オランダ製。
このかたちを手にしながら研究室エッセイをひとつ。
オランダ製。
このかたちを手にしながら研究室エッセイをひとつ。
さてさて新年です。村上春樹が書いた1Q84もついに読めないまま年越しをしてしまった、のでやや焦っています。
再開した定例ゼミや昨年の後期から疾風怒濤の勢いで増えた学外への調査活動やフィールドワークの様子を見ていると、最近のわが研究室の気分はしっかりとケンチクしてますぅ。これが最初のホンネ。
でも、全国各区あまたある建築学科の研究室や環境設計学科や住居関連学科の研究室とはかなり違ったこの雰囲気なんですね。
モノとしてだけでケンチクを見てない、どっかケンチクを透視しながら、もうひとつのケンチクを見つけようとしているような感覚。あるいはケンチクの中に入り込んでいって、そこでヒトの営みをどう上手に生み出したり、ヒトとヒトとを出逢わせたり、ヒトとヒトとを関係づけたり、けっこう難しいこと考えている感覚。これは間違いない。
でも、これっていったい何て説明していけばいいのん?というのがスタッフや同人達の最近の関心ごと、になっている。
昨年の7月に学内の部門再編成があったようで、うちの先生も名刺を書き換えるか、とつびやいていた。
正式には、九州大学大学院芸術工学研究院というのが所属先だけど、大学院と学部は別々な器になっているとのこと。
大学院の博士や修士のセンパイ達なら、九州大学大学院芸術工学府と所属先を示して、それから、芸術工学研究科 環境・遺産デザインコース となるらしい。でも、環境・遺産デザインコースと言われても、しっくりこない。
学部なら、相変わらず芸術情報設計学科の担当とのこと。今年の4月に卒論生としてやってくる3名の男子学生(予定)たちは、たしかに芸術情報設計学科の純正品。
でも、最近の学外演習やフィールドワークの感触はケンチクっぽい。
ところで、ケンチクを漢字で建築と書きたいけれども、どうもそんな本家本元を目指しているわけじゃないみたい。だから、けっこうゼミのスタッフや留学生諸君は複雑なねじれを持っていて、モノとコトとヒトとの狭間で悩んでいることも少なくない。
定例ゼミの議論に出てくる専門用語を解釈したり理解したりするだけでも、けっこう楽じゃない。
とか言いながら、じつは学生の立場もこんな専門用語をたしかめたり、現場へ行って詳しい方に尋ねたりしているわけじゃなくって、けっこう勉強不足は隠せない。
定例ゼミの場に漂うある種の緊張感には、先生の立場からの困ったなあ、という気分と、学生の立場からの困ったなあ、が重なり合っている。
さて、今この研究室がめざしている世界や具体的な立ち位置をどう説明すればいいのかしらん。どんなチャートを用意すれば説明がつくかなあ、と無い知恵で考えているところ。
先生は「芸術文化環境論」をずいぶん試行錯誤しながらオリジナルにこしらえた、というけれど、それはどうもホントウらしい。建築をものの集積としてのハードウエアとしてだけで捉えず、生活や仕組みを生み出し運営していくためのソフトウエア、さらにはどんな人がそこに暮らしながら物語を生み出していくのか、を真剣に読み込んで行く。そんな包括的・包摂的基盤を「環境」と言う言葉で示しながら、そこから人間の珠玉の知的資産としての芸術文化を創造し、社会の絆づくりやヒト育てのプラットフォームとしての場づくりをめざしているとよくおっしゃる。
だから、藤原惠洋先生のケンチク観ってそうとう特別らしい。
だって先生って、こんな樔のような場所が棲むにはちょうどいい、って本気で言うからねえ。
再開した定例ゼミや昨年の後期から疾風怒濤の勢いで増えた学外への調査活動やフィールドワークの様子を見ていると、最近のわが研究室の気分はしっかりとケンチクしてますぅ。これが最初のホンネ。
でも、全国各区あまたある建築学科の研究室や環境設計学科や住居関連学科の研究室とはかなり違ったこの雰囲気なんですね。
モノとしてだけでケンチクを見てない、どっかケンチクを透視しながら、もうひとつのケンチクを見つけようとしているような感覚。あるいはケンチクの中に入り込んでいって、そこでヒトの営みをどう上手に生み出したり、ヒトとヒトとを出逢わせたり、ヒトとヒトとを関係づけたり、けっこう難しいこと考えている感覚。これは間違いない。
でも、これっていったい何て説明していけばいいのん?というのがスタッフや同人達の最近の関心ごと、になっている。
昨年の7月に学内の部門再編成があったようで、うちの先生も名刺を書き換えるか、とつびやいていた。
正式には、九州大学大学院芸術工学研究院というのが所属先だけど、大学院と学部は別々な器になっているとのこと。
大学院の博士や修士のセンパイ達なら、九州大学大学院芸術工学府と所属先を示して、それから、芸術工学研究科 環境・遺産デザインコース となるらしい。でも、環境・遺産デザインコースと言われても、しっくりこない。
学部なら、相変わらず芸術情報設計学科の担当とのこと。今年の4月に卒論生としてやってくる3名の男子学生(予定)たちは、たしかに芸術情報設計学科の純正品。
でも、最近の学外演習やフィールドワークの感触はケンチクっぽい。
ところで、ケンチクを漢字で建築と書きたいけれども、どうもそんな本家本元を目指しているわけじゃないみたい。だから、けっこうゼミのスタッフや留学生諸君は複雑なねじれを持っていて、モノとコトとヒトとの狭間で悩んでいることも少なくない。
定例ゼミの議論に出てくる専門用語を解釈したり理解したりするだけでも、けっこう楽じゃない。
とか言いながら、じつは学生の立場もこんな専門用語をたしかめたり、現場へ行って詳しい方に尋ねたりしているわけじゃなくって、けっこう勉強不足は隠せない。
定例ゼミの場に漂うある種の緊張感には、先生の立場からの困ったなあ、という気分と、学生の立場からの困ったなあ、が重なり合っている。
さて、今この研究室がめざしている世界や具体的な立ち位置をどう説明すればいいのかしらん。どんなチャートを用意すれば説明がつくかなあ、と無い知恵で考えているところ。
先生は「芸術文化環境論」をずいぶん試行錯誤しながらオリジナルにこしらえた、というけれど、それはどうもホントウらしい。建築をものの集積としてのハードウエアとしてだけで捉えず、生活や仕組みを生み出し運営していくためのソフトウエア、さらにはどんな人がそこに暮らしながら物語を生み出していくのか、を真剣に読み込んで行く。そんな包括的・包摂的基盤を「環境」と言う言葉で示しながら、そこから人間の珠玉の知的資産としての芸術文化を創造し、社会の絆づくりやヒト育てのプラットフォームとしての場づくりをめざしているとよくおっしゃる。
だから、藤原惠洋先生のケンチク観ってそうとう特別らしい。
だって先生って、こんな樔のような場所が棲むにはちょうどいい、って本気で言うからねえ。