建築史家でまちづくりオルガナイザーこと、藤原惠洋(ふじはらけいよう)教授の活動と、通称ふ印ラボ(ここで「ふ」の文字は意味深長なのでちょっと解説を。ひらがなの「ふ」は「不」の草体。カタカナの「フ」は「不」の初画を指しています。そのまま解釈すれば「つたない」かもしれませぬ。しかし一歩踏み込んで「不二」とも捉え「二つとないもの」を目指そう、と呼びかけています。ゆえに理想に向けて邁進する意識や志を表わすマークなのです。泰然・悠然・自然・真摯・真面目・愚直を生きる九州大学大学院芸術工学研究院芸術文化環境論藤原惠洋研究室というわけ、です!)の活動の様子をブログを介して多くの同人・お仲間・みなさまにお伝えしています。 コミュニケーションや対話のきっかけとなるようなコメントもお待ちしております!
台湾を代表する女性環境建築家の郭中端先生とご主人建築史家・建築理論家の堀込憲二先生のお二人と再会、その御活躍ぶりに感激するばかりでした。

台湾国内でのランドスケープ・アーキテクト事務所としての環境デザインはもとより、歴史的環境や歴史的建造物の保存調査や再生プロジェクト、さらには象設計集団や内藤廣先生をはじめとする数々の日本人建築家や建築組織とのコラボレーション・プロジェクトが有名です。

私たちにとっては、19世紀以降の台湾近代化過程を実証的に跡づけてくれた研究者ご夫妻でもあります。
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その御仕事のひとつが八田與一氏の再顕彰。このことに触れておきます。

八田與一は、台湾で最も尊敬される日本人としてつとに知られています。戦前台湾の農業灌漑を十全なものとするために、農業用水施設としてのダムや関連施設を建設していった恩人として台湾人の記憶に生き続けている御仁です。
彼がなしえた最も有名な施設は台南県の烏山頭水庫ならびに嘉南用水路(嘉南大しゅう)。この施設のおかげで台湾最大の穀倉地が生まれました。いまも八田氏の銅像が同施設に残り、多くの台湾人の尊敬を集めています。また台湾農業に尽くした偉業は、台湾の中学校の歴史教科書『認識台湾』に紹介されており、最近になり台湾での再顕彰が行なわれるようになり、学校教育の場でも語られ始めているとのことです。

http://www.a-eda.net/asia/hatta1.html
「八田與一」によれば、以下の通り。

八田與一は1886年、金沢市に生まれ、東大・土木工学を卒業後、24歳の時(1910年)に台湾総督府内務局土木課の技手としてつとめた。
当初は衛生工事を担当していたが、28歳からは水利事業を担当、設計工事の責任者として桃園の水利事業以降は第一人者として技師として認められることになった。
56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。

彼は、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設(1920年着工10年を要した大規模土木事業)にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われた。

烏山頭は大きな工事であり困難も伴い時間もかかる。働く人たちが安心していい仕事ができるために家族が一緒じゃないといけない。」と八田與一は主張した。
そして工事が始まり、家族を含め2000人にもなるひとつの街ができた。工事関係の施設はもちろんのこと、家族も住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広場)、さらに学校もできたのだ。

嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わった。
嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とともに台北に去った。
八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。 (その遺骸は、操業中だった山口県の漁船によって、偶然網にかかり引き上げられた) 

3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、他の疎開先から戻ってきた子息と会った日の深夜(9/1)に、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追った。享年46歳であった。



そして昭和21年12月15日、嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。
作業着姿の銅像とともにいまも農民たちの手で守られて、今でも毎年5月8日、神榊のごとく幕っていた八田輿一のために現地の人々によって追悼式が行われている。

2001年現地の人々によって、放水口のすぐ近くにすばらしい「八田與一紀念室」が完成した

Comments

    • のぼる くどう's comment
    • 2011年04月24日 13:15
    • はじめまして。

      前略

      ブログより 突然お伺いしました。

      私は日大時代に堀米氏郭氏に 大変お世話になった者です。
      もし堀米氏の連絡先を御存知であればお教え願えないでしょうか。
      大変に厚かましく恐縮ではございますが、
      何卒 宜しくお取計らい下さいます様 お願い申し上げます。

                                 敬具

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